2020年4月17日

 

 コロナ禍が人類の不道徳に対する神の祟りだとしたら、祟りだと叫ぶ人(以下、「叫ぶ人」という。)がしていることは、不道徳をとがめる神のメッセージを言葉にして人々に伝えていることになる。

 いわば預言者、神の言葉を預かる者、名誉ある役割を担っていることになる。

 ところで、道徳が決して普遍的、絶対的ではなく、時代によって、社会によって、大いに異なることは、社会科学、人文科学が明らかにしてきたところだ。

不道徳に対して神が反応したとすれば、神は多様であり得る道徳のうちから特定の道徳を選んだことになる。

神が相対的でしかない特定の道徳を選ぶことは、普遍性、絶対性をその本質としている神の自己否定となる。

ありえないことだ。

 

 特定の道徳を選んだのは神ではないことは明らかだ。

叫ぶ人が神の名を借りて、自分の道徳の実現を人々に要求したのだ。

叫ぶ人は自分の道徳は普遍的、絶対的だと信じて疑わない。

社会科学、人文科学が明らかにしてきたことを無視している。

だから、神の名を借りることに躊躇がないのだ。

不敬なことではないだろうか。

 

かつて、神はこの世の創造者であり、創造者としての立場からこの世の秩序維持に関わっていた。

神が関わるこの世の秩序維持には人間社会の秩序維持も当然含まれていた。

かくて人間社会の秩序維持の役割を持つ道徳は、神の教えを担う宗教と一体をなして秩序維持を図っていたのだった。

その時点では、道徳は、宗教と一体であることによって普遍性、絶対性を獲得することができていた。

しかし、その蜜月時代は近代を迎えてすでに終結した。

終結をもたらしたのは科学であり、人間の理性が宗教と道徳の普遍性、絶対性に襲いかかったのだ。

結果判定者の一人がニーチェ。叫ぶ人はニーチェの結果判定を聞いていないのだ。

人間社会は人間が担わざるを得ない、すなわち普遍性、絶対性の支えを断念しなければならないという現実を、近・現代人は耐えなければならない。

叫ぶ人は耐えられないと実は叫んでしまっているのだ。