2020年4月8日
緊急事態宣言が出され7都府県知事が新コロナへの対応措置を決める権限を得たが、新特措法の枠組みのなかでは、一部強制措置が可能となるものの、対応措置の基本は「自粛の要請」ということになる。この「自粛の要請」については、「日本モデル」というような言い方もされ、他の国の「罰則による強制」よりも優れているという評価もあり、一方では生ぬるい方法ではダメだという批判もある。
「自粛の要請」と「罰則による強制」という2つの手法のどちらが優れているのか。少ない副作用で効率的に短期間で効果を発揮するのはどちらか、という判定によるのだろうが、国民性の違い、国情の違いということもあり、一律、普遍的な決着はつきにくいものと考えられる。
筆者はそのような判定が微妙な問題に関わる気はないのだが、気分の問題ではあるが、「自粛の要請」という「日本モデル」に対して「いやな感じ」がある。
緊急事態宣言直後の首相記者会見で使われたフレーズには次のようなものがある。
「私たち全員が努力を重ね‐‐ることができれば、」「(人混み回避、他人との距離、マスク着用)そのことが、他の人の命を守り、自分の命を守ることになる。」「全てはみなさんの行動にかかっている。」「希望をもたらしたもの。それは人と人の絆。日本中から寄せられた助け合いの心‐‐‐みんなで力を合わせれば、再び希望を持って前に進んで行くことができる。‐‐‐打ち勝ち‐‐‐試練も必ずや乗り越えることができる。」
また、他の人々の発言には「国難」「一致団結」「戦い」「有事」というような単語も頻出する。
「自粛の要請」はまさに自主性が重んじられる措置であるかのごとく受けとめられるが、これらのフレーズ、単語が表わしているのは、道徳主義、倫理主義、集団主義、努力主義といったもので、人々を心理的に社会への同調へと導こうとするものにほかならない。自主性が重んじられるようではあるが、これらは道徳的説得というかたちをとった、社会に同調せよという為政者からの圧力である。為政者による個人の精神的自由への侵害である。道徳的精神を刺激され、全体への貢献の必要性を説得され、みんなでいっしょにがんばりましょうと促された結果として人々が同一行動を選択することになるなどというストーリーに乗るのは、自分の自主性を軽んじられているようで気分が悪い。
国民の自主性を小馬鹿にして、コントロール可能と満足している為政者に道徳的説得などされたくない。そんな為政者に自分の道徳性を期待されたくなどない。
道徳性を競わされる社会とは力ある者への忖度を自主的に競ってしまう社会と同義である。嫌らしいことこの上ない、相互監視の、住みにくい、不自由な社会なのだ。
それならば、いっそのこと、厳しい罰則があるために不本意ながら従わざるを得ないというほうが、自分の精神的自由が維持、確保されていて余程気分が救われる。
政策目的の設定には、ウエット、ウオームが必要だが、政策の実行は、ウエットよりもドライ、ウオームよりもクールがいい。