2020年3月26日

 

 「K1」のさいたまアリーナでの開催強行が話題になった。現場に県知事が出動してまでの自粛要請に主催者は応じなかった。新型コロナの状況悪化を背景にして世間はおおむね主催者側に対して批判的であるように思える。

 この問題を自粛要請に応じるか応じないかの問題としてだけ考えることは適当でない。問題を自粛要請か命令かという問題として考えたほうが、今後のこととして有益だと思う。

 

 自粛要請も命令も、ともに目的を実現するための行政手段である。自粛要請には罰則が付かない。命令にすれば罰則を付けられるが、付けないという選択もある。自粛要請と命令の本質的違いがここにあるが、本文では罰則の問題は横に置いておく。

 

 自粛要請というのは、あいまいな基準(今回の問題で言えば、例えばいわゆる「3密」)を行政が示しつつ、最終判断を市民に任せるものである。任せられた市民には正確な情報などまったく無い。世間の雰囲気を読んで判断をすることになる。当然のことながら、その判断はバラつくことになる。そしてそのバラついた判断が世間の評価にさらされる。世間の評価は雰囲気によって、とりわけマスコミの報道ぶりによって、揺れ動く。そんないい加減なものであっても、世間に批判を浴びることになったら怖い、袋叩きにあうことになる。村八分になって市民権を失う。

 要するに自粛要請とは、あいまいな世間というものを判定者にするものであって、しかも結果のペナルティがどれほどのものになるかが予測できないという恐怖の行政手段なのである。人々に与えるストレスの大きさは計り知れない。

 さらに自粛要請への対応には様々な選択の幅があるため、行政への忠誠度、行政への忖度を競うものともなり、そのことが世の中を密告社会としていくことにもなる。隣人による行政への通報を恐れなければならない相互不信の社会となる危険をはらむのである。

 

 基準があいまいな自粛要請に対して、命令というのは基準の明確化が必ず必要である。明確でない命令は命令たりえない。

 基準として、例えば、時期・時間、地域・場所、人間密度、開催規模、年齢制限、開催目的などが考えられる。しかし、科学的研究の蓄積のない事案では基準設定がそもそもむずかしい。

 加えて基準は必然的に不連続を伴う。例えば、10人以上の集まり禁止という基準であれば、9人はOK、10人はNOということになる。その根拠を示すことは困難、ほぼ不可能である。

 OKとされた9人の開催は、仮にそこでことが起きたとしても、命令に従ったまでと弁明し、世間の追及を逃れることができる。

 一方、根拠薄弱な命令によりNOとされた10人の開催の主催者は損失の補償を要求する。9人がOKでなぜ10人はNOなのか、裁判沙汰になる可能性も高い。

 命令は自粛要請に比べて行政が負う責任が格段に重いのである。

 

 このようなことから行政は命令をできるだけ回避し、自粛要請に頼ろうとする。市民を犠牲にして行政にとって安易な道を選ぶのであり、要するにこれは行政の怠慢と言わなければならない。

 この際、根拠薄弱、不連続の理不尽を伴うものではあるが、総合的に判断し、批判は抑制して、明確な命令を行政に要請することが得策なのではなかろうか。(以上のような考え方について、民主主義、市民の政治参加、過度な行政権限付与の危険といった観点からの批判があり得るが、具体的な目的設定においての民主主義的合意があれば許容されるのではないかというのが、取り敢えずの筆者の考えである。)