2020年3月21日
「お互いに人間同士」という連帯感がヒューマニズムの感情的基盤としてある。連帯感とは一緒に何らかの共同体を形成していることから来る仲間意識である。
ルネッサンスの時代、それまでの「神」の支配、神中心主義、事実上は「神」に名を借りた聖職者による支配、これらは非合理であるという認識が沸き起こり、人間は人間であることに価値があるという人間肯定感が醸成され、それが人々の連帯感を生むことになった。これが近代ヒューマニズムの発生である。(この場合、人間に価値があるのはその合理的精神、理性によると考えられていた。このことは植松聖の考えに通じるところがあり、留意が必要である。)
さて、時代を経て、現代の我々は、ヒューマニズムの感情的基盤としての人間同士の連帯感をどこに感じているか?我々の社会をいかなる意味で連帯感を生む共同体であると考えているか?
植松聖のイメージにある社会は、彼の発言からすれば経済的利益共同体であろう。社会が経済的利益共同体という側面をもつことは万人の認めるところである。植松聖の理屈はそのわかりやすい、当たり前の事実に依拠している。
経済的利益共同体においては、人間は仲間に経済的利益を生む存在であり、お互いの経済的利益の増進に貢献し合う関係が形成されている。そこに連帯感が生まれてくるのは当然のことで、我々が日常的に見ることができる人々の連帯である。
この普通に存在している連帯を基礎にしたヒューマニズムが植松なりのヒューマニズムである。だから彼は自分が間違っているとはこれっぽっちも思うことができない。
しかし、経済的利益共同体ではお互いの利益増進に貢献せず、損失を生じさせる存在は、連帯感の対象にはならない。経済的利益共同体は、利益に反する存在を直ちに共同体の外に排除してしまう。ヒューマニズムの対象範囲を容易に変更してしまう。極めて脆い共同体であり、そこから生れるヒューマニズムは極めて御都合主義的なヒューマニズムと言わざるを得ない。
社会は経済的利益共同体だという認識から導かれるヒューマニズムは限定的、即物的で、普遍性、永遠性に欠けるのだ。
唐突だが、井筒俊彦「ロシア的人間」のドストイェフスキーに関する章によれば、ドストイェフスキーは「原罪意識の深化」による「あらゆる人があらゆる人に対して罪の負目をになう無限に大きな罪の共同体」を考えていたという。そして「罪の共同体」はそのまま「罪を分ち合い、赦し合う」ということによって「愛の共同体」だという。
その説明は残念ながら、原罪の分からぬ筆者には理解することができない。しかし、人間の積極的側面ではなく、人間があまねく持っていて、そこから逃れることができない人間の否定的側面が、お互いに相哀れむ感情を人々に呼び、この相哀れむ感情を共有する共同体、そこから生じて来る連帯感、それがヒューマニズムの基礎となる、そういう考え方があり得るということをドストイェフスキーの「罪の共同体」から受けとめることができる。
人間が「神の支配」から脱した、まさにヒューマニズムを獲得した今、人間は「我々の存在の無意味性」という問題に直面している。加えて科学の発達は、宇宙の必滅、人類の必滅を明らかにして、「我々の存在の無意味性」という理解を客観的事実として補強してしまった。
我々は「我々の存在の無意味性」「人類の必滅」という状況を生き通さなければならないという過酷な否定的、消極的な運命の下にある。
我々はみな、無意味という過酷な運命を共にする共同体のメンバーである。我々はみな、それゆえの相哀れむ仲間同士という連帯感を共有すべく存在している。現代の我々のヒューマニズムはこの悲しみの連帯感を基礎とするものとして再構築することができるのではないだろうか。