2020年3月16日
判決が出て、植松はかねてより控訴はしないと宣言しているから、間もなく死刑は確定し、監獄内において、絞首して死刑は執行されることになる。
その時期については、刑事訴訟法上は刑の確定から6か月以内とされているが、この規定は事実上空文化しており、それよりも長くなっていて、かつその程度はバラバラである。
法務大臣の命令書への署名によって刑は執行されるが、植松の死刑執行時期の選択の幅はかなり大きいと考えられる。
さて、筆者が知るかぎりでは、植松は自分の犯した行為を倫理道徳上は正当と考えており、全く反省をしていない。
植松の考えを変え、反省させることに、多くの試みがあったようであるが、成功していない。
このような状態のまま植松の死刑を執行することは、植松の自己肯定感を現在以上に強めることとなる。
自分を社会は説得することができないのだ、自分のほうに倫理道徳上の正当性があるからだ、仕方なしに問答無用で自分を死刑にして黙らせるのだ、植松は死刑執行をこう受けとめるだろう。
植松は論理的な話ができない人間ではなさそうだ。その若僧ひとりを説得できない我々の社会は敗北したことになるのではなかろうか。死刑に処したからそれでよしということにはならないのではなかろうか。狂人が引き起こした異常な事件というだけの幕引きは社会として恥ずかしいのではなかろうか。
そういう意味で、植松の死刑執行は、植松にその「生産性云々」の考えを改めさせ、反省をさせてからのこととするべきだと考える。