2020年3月2日
新型コロナウイルスについて当初狙っていた封じ込め、あのクルーズ船「ダイアモンド・プリンセス号」への対応に見られた水際作戦・侵入阻止作戦は失敗した。その後はルート不明の感染が発生する市中感染の状態になっている。新型コロナウイルスを撲滅することはもはや不可能であり、新型コロナウイルスが市中に存在することを前提とした上で、その被害を最小限にとどめる措置をとっていかなければならない状況となっている。有効な治療薬が未開発ということが新型コロナウイルス肺炎と国内で発生している他の感染症との基本的な違いであるが、幸いにして新型コロナウイルスのほうは致死率の大きな病ではない。
新型コロナウイルス肺炎についてはこのような現状であるが、今や断念されたはずの封じ込め、侵入阻止という発想からの完全主義が関係者の心理の上にまだ残っているようで、これが過剰防衛の状態を呼んでいると思われる。
感染確率をゼロにすることはもはや不可能であり、感染確率をできるだけ低くするというのが現在求められている措置である。したがって現在は、感染確率をゼロにするために何が何でも対応措置を実施するという絶対的阻止段階ではなく、確率を低めることができる程度とそれに伴う犠牲、副作用とのバランスを考えながら採るべき措置を決定するという相対的抑制段階にある。新型コロナウイルスとの共存という状況を我々は迎えているのである。
この観点からすると学校一斉休校は明らかに過剰反応であり、「鶏を割くに牛刀をもってする」のたぐいと判断される。競馬、大相撲、東京マラソンなどとは混雑、雑踏のレベルをまったく異にする各種公共施設の閉鎖というのも同様である。
もしある施設で感染が発生した場合、その施設がしかるべき最低限の措置を怠っていなければ、その施設の管理者が批判されることは、たとえそれが営利の施設であっても、あってはならない。しかしながら、発生した場合の批判が恐くて続々と各種施設の閉鎖が決定されている。絶対的阻止段階はすでに断念されて相対的抑制段階となっているという局面変化を忘れた異常事態だ。
けしからんと思うのはマスコミに続々と登場する「専門家」とその「専門家」を問題意識なく利用するマスコミだ。彼ら「専門家」は感染確率を低下させることの専門家であって、その対策による犠牲、副作用とのバランスを考えることについてはまったく専門家ではない。敢えて言えば、世の中を知らない象牙の塔の人たちだ。だから彼らは感染確率を低下させることであれば、それが過剰防衛であっても、そんなことはお構いなしに良しとするのである。
マスクに予防効果があるのかないのかについての「専門家」の態度が以上のことの象徴である。ほとんど予防効果はないのだが、ないよりはあったほうが少しはいいかもしれない。感染者が他者に感染させないためには効果がある。これが真実に近いと思われる。しかし、マスク必須の誤解は「専門家」達によって放置されているである。悲しき大衆はマスクを求めて走り回っている。
以上の認識が正しいか正しくないか、実際のところよくわからない。これまで得た各種情報を自分なりの常識で総合した結果である。新型コロナウイルスが爆発し、過剰防衛と思われたものが過剰どころか不足であったというような事態にならないかぎり、その当否は永遠の謎とならざるを得ないであろう。
それにしても、最も合理性が求められる「有事」において合理性が貫徹しないというこの社会の根本的問題は何なのであろうか、もっと本格的な「有事」が発生した場合にこの社会は対応することがたぶんできないのであろう、などと大げさなことまで考えてしまう。