2020年2月8日
(植松聖による障害者施設襲撃事件について筆者は情報を積極的に集めているわけではない。以下はテレビ、新聞で接した限られた情報からの判断でしかない。事実認識に間違いがあればみなさんから御指摘いただき、また判断について御見解があれば伺いたいと考えている。)
さて、何人かの人が植松聖と留置場で面会し、また最近の裁判では被告人質問というかたちで、植松と言葉を交わしている。そして報道の限りでは、植松に事件への反省を迫ったものの、多少の反省的言辞を植松から引き出しつつも、事件を正当化する植松の根本的態度に影響を与えることには成功していない。むしろ植松は相手側に自分を説得する力がないと判断して、自分の正当性に自信を深め、言いたい放題の状態になっていると思われる。
このような事態に至ってしまっていること、またこのような事態に対しての有効な見解がどこからも現われてこないことは深刻だ。問題が基本的人権という社会の根幹理念に関わることを考えれば、日本社会の理念的基盤が脆弱なのではないか、根幹理念のはずのものが根幹たりえていないのではないかとの不安を生じさせる。一青年の狂気に対して日本社会はまともに対応する力がないのではないかという疑念が生じる。
報道から受ける強い印象は、植松聖への語り掛けが極めて情緒的だということである。植松にも自分と同じように人間性というものがあるだろう。その人間性に訴えれば植松は自分の行為の誤りに気づくだろう。そして改心の涙を流すようになるはずだ。植松に対してこういう無根拠で安易な、情緒的な思い込みによる「すり寄り」が行われている。
植松にこのような情緒的アプローチが無効であることがなぜ気付かれないのであろうか。植松は被害者を育てた親に対する詫びの言葉を漏らしている。その事実は植松が人並みの情緒を有していることを外部に示そうとしていることと理解される。そして、人並みの情緒を抑えてでも敢えて為すべきことがあるとの理屈で、すなわち自然な感情を抑えるということをむしろ自己正当化のバネにして、障害者を社会から排除する行動に植松は踏み切っているのである。自分の情緒、自分の人間性を理屈で乗り越えるのに植松に大きな葛藤があったとは思えないが、本人は覚悟をもって情緒より理屈を優先させたのだというスタンスである。その植松に情緒を訴えても有効であるはずがないのは明らかであろう。逆に植松の自己正当化を強める効果を持ってしまうと考えなければならない。
植松の理屈に対しては理屈で真正面から対応しなければ植松に勝つことはできない。情緒で迫っている限り、植松にとって相手側は情緒を理屈に優先させる者たちであり、自分よりも覚悟のない劣った者たちでしかないという植松の優位意識を強めることになる。植松は自己正当化を深めるばかりであろう。
植松の理屈に対しては理屈で対抗し、植松の理屈が間違っていることを植松に認識させなければならない。
植松の理屈は単純だ。浅薄皮相な功利主義だ。「障害者は社会の役に立たず、何の貢献をすることもなく、社会の重荷になっている。」というだけのことだ。
植松が「役に立つ」とか「立たないとか」という言葉づかいであることからして、植松の言う「社会」「貢献」「重荷」は経済的な意味のものだけでしかないことはほぼ明らかだと考えられる。経済よりも優先すべきものがあるということ、社会は経済だけではないということが植松には考えられていないと思われる。
我々の「社会」は、経済的なものを重視するという実態はあるものの、それに優先すべきものがある、そのうちの一つが基本的人権であるということを宣言した「社会」である。社会の構成員はそのことをお互いに契約していると言ってもよい。植松はこの前提を無視して契約違反の勝手な行動を起こした者だ。「植松よ、社会の構成員としての契約違反を認めよ。」と植松には対するべきなのである。社会を正当性の根拠としている植松にとって自己正当化の余地はこれでなくなるであろう。植松の理屈は平々凡々で、大したものであるわけではない。
高慢化している植松は、間違っていると言われた功利主義が世の中にはびこっているではないか、世の中は基本的人権尊重を建前としながら事実上は功利主義を優先しているではないかと反論するかもしれない。その反論がなされたならば、植松にはこう言うべきだ。「君の指摘は正しい。世の中は君と同様に契約違反を理由に罰せられるべきだ。ただし、世の中の契約違反をもって君が免罪されることにはならないよ。」