2020年2月2日
その記事(2月2日朝日朝刊)の見出しは「『音楽の力』は恥ずべき言葉」である。記事本文には「復興を祈る公演などを通じて、『音楽の力』で社会に影響を与えてきたのでは、と(記者が)質問しようと話を向けると、(坂本龍一から)強い拒否反応が返ってきた。『音楽の力』は『僕、一番嫌いな言葉なんですよ』という。」とある。〈(注)( )は筆者の補い〉
誠に爽快、よくぞ言ってくれたと拍手喝采である。
世の中に浅薄皮相で偽善的な「常識」がはびこっている。社会は「みんな良い子のちいちいぱっぱ」で幼稚園化している。その実、流れているのは物質主義、功利主義、エゴイズムといったいやらしい大人の論理である。
坂本がこんな社会批判の立場に立っているわけではないかもしれない。しかし、おそらく坂本が許容できないもう一つの恐ろしい今の社会の特徴がある。それは、人々が一定の範囲内の限定的価値観の下で生きているはずだとされてしまっているということである。多様な個性とか言いながら、その個性はある範囲内の限定された個性であるに違いないと見くびられているのである。
音楽の世界、芸術の世界はそんな世界ではない。それは世間から独立した、独自の基準・論理を有する絶対的世界である。その世界で生きている人間として、個性を見くびる、限定的価値観の社会を坂本は許容することはできないだろう。それを許容すれば、その限定的価値観に貢献するかぎりにおいてしか、あるいはその限定的価値観が許容する範囲においてしか、坂本の音楽・芸術は存在を許されていないということになってしまう。音楽・芸術の絶対性が否定されている。音楽・芸術は社会の僕(しもべ)ということになってしまう。音楽・芸術は坂本にとっては目的なのにもかかわらず、手段としての価値が認められるに過ぎなくなってしまう。
それでいいのだと考えている社会が何の問題意識もなく、音楽を讃えているつもりになって、安易に「音楽の力」などという言葉を使ったのである。
坂本龍一は真の音楽家・芸術家の精神を持つ人であったがゆえに、この言葉遣いにはらまれている反音楽・芸術思想に鋭く反応したと言えるだろう。(そのことを鋭く報道した新聞記者もほめておきたい。)
坂本は記事の最後でこう言っている。「好きだからやっているだけ。一緒に聞いて楽しんでくれる人がいれば、楽しいんですけど。極端に言えば、1人きりでもやっている。僕には他にできることはないんです。子どもの時からたった1人でピアノを弾いていた。音楽家ってそんなもので、音楽家が癒してやろうなんて考えたら、こんな恥ずかしいことはないと思うんです。」
謙虚なる言葉遣いの音楽・芸術の独立宣言であり、実はやはり浅薄皮相な社会への一撃なのである。