2019年12月7日
L・ランダル・レイ著「MMT現代貨幣理論入門」を読んだので、簡単な解説をしてみよう。筆者はMMT(Modern Monetary Theory)をまったく馬鹿にしていたのだが、「経済の変化を映す 堅実な議論」という間宮陽介京大名誉教授の書評を読んで、これは捨て置けぬという気持ちになって読んでみたのであった。細かく理論の紹介をしても「私をどこに連れて行くの?」という疑問が生じて、ついていくのがつらくなるだけなので、政策としていったい何を主張しているのか、というところから解説に入りたい。
MMTはアベノミクスを支える黒田バズーカという超金融緩和策を追認するもので、超金融緩和策がはらんでいる問題を無視したけしからん理論というのが事前の筆者の考えであった。しかし、MMTの主張はアメリカの民主党左派の政策、保守派から社会主義ではないかと非難されるようなリベラルな政策を後押しするものであった。1930年代の大恐慌に対して講じられたケインズ政策(=ニュー・ディール政策)の系譜に連なる政策の採用を主張するものであった。
すなわち、失業者の問題が最も深刻な社会問題で、経済政策が取り組むべき最重要課題であるとの認識に立って、完全雇用を達成するために、財政赤字を懸念することなく、政府による失業者の直接的雇用を内容とする「就業保証プログラム」を採用せよとMMTは主張するのである。
このような政策に対しては、まず、国債発行が莫大となり財政破綻を引き起こすのではないか、という反対論が出てくる。これに対してMMTは――政府と中央銀行を一体と考えて――通貨発行権を有する政府がデフォルト(債務不履行)に陥ることは絶対にない、と反論する。国債の元利償還に充てる資金がなければ、新たに通貨を発行すればそれで済むはずだ、というのである。この反論は乱暴なようだが、副作用の問題を横に置けば、正しいものである。
次の反対論は、その副作用に関するもので、MMTの政策はインフレと自国通貨安による輸入品価格の高騰をもたらす、というものである。これに対してはMMTはその懸念があることをあっけらかんと認めるのである。認めながらその問題を深刻にはとらえないのである。筆者は本書の最後の最後までその根拠がどこにあるのかを求め続けたのであったが、その根拠を見出すことはできなかった。
そして、筆者が気づいたのは次のことである。ケインズ経済学には「ハーヴェイロードの前提」というものがあるとされている。すなわち、「ハーヴェイロードの前提」とは公正中立で専門知識が十分な政策担当者によって政策が遂行されるという前提である。実際の政治過程ではこの前提が成り立たず、ケインズの経済政策はブレーキが利かない放漫な財政運営と化してしまうというケインズ経済学に対する批判があるのである。MMTの場合、この「ハーヴェイロードの前提」がさらに範囲を拡大し、政府、中央銀行、議会においても公正中立で十分な専門知識があって、彼らによってインフレ、通貨安が発生しないように節度ある経済運営が行われるということが大前提としてあると考えられるのである。
我が国でも制度化されている中央銀行の直接的な国債引き受け(中央銀行による直接的な政府へのファイナンス)の禁止はMMTでは無意味な規制とされている。この規制はマーケットの声を聞くとともに中央銀行の独立性を維持して政府の暴走をコントロールしようという規制だが、MMTがそれを無用とするのも、政府の暴走などを決して想定しないMMTによる「ハーヴェイロードの前提」の範囲拡大の結果だと考えられる。
善意の政策決定者による、専門知識に裏付けられた善意の適切な財政運営、それによって問題は発生しないというMMTの想定は、哲人政治を想定するのに等しく、現実性を欠くと思われる。失業という深刻な社会問題を解決したいというMMTの善意は認めるのであるが、そしてその善意の方向で政策が展開されることを期待するのではあるが、財政政策としては本書で引用されるポール・サミュエルソンの以下の発言が筆者は正しいと思うのである。
「財政は常に均衡しなければならないという迷信〔が必要だという考え方〕には、一片の真理が含まれていると思います。それが迷信だとばれてしまうと、〔そのことが〕すべての社会が制御不能な支出に対して備えていなければならない防波堤の1つを取り除いてしまいます。資源の配分には規律が必要であり、さもなければ無政府主義的な混乱と非効率に陥ってしまうでしょう。」