2019年12月5日

 

 11月30日(土)のNHK「ブラタモリ」で「岡山~‶岡山といえば桃太郎″なのはナゼ?」が放送された。桃太郎伝説の諸要素(桃太郎、桃、鬼、犬、猿、雉等)を岡山が備えていることを取り上げていくもので面白い内容であったと思う。

しかし、番組では、古代豪族・吉備氏が支配する「岡山」に大和朝廷から天皇の子が派遣されて吉備氏を破り「岡山」を大和朝廷支配下の地とした、というストーリーが語られ、その天皇の子が「桃太郎」、吉備氏が大和朝廷に反抗した「鬼」とされていて、そこには根本的な違和感があった。

 

 番組の中心となった吉備津神社はそもそも吉備氏の祖先を祀る神社で、「鬼」はその吉備氏が滅ぼしたものとされているのであって、吉備氏が「鬼」であるというのは吉備津神社が有するストーリーに全く反するものである。天皇の子=桃太郎という説の根拠として番組で示された文書はかなり後世の文書であって、伝承を無視して天皇崇拝イデオロギーの下で作成された文書と考えられる。(それを番組に提供し自己否定されてもあっけらかんとしている神社の態度にはあきれてものが言えない。そこにNHK権力というものがあるのであろう。)

 

 それでは吉備氏にとって「鬼」とは何であったのだろうか?また吉備氏が築城した「鬼ノ城」とは何であったのだろうか?

 

 縄文時代から弥生時代への移行は、朝鮮半島、中国南部からの渡来人によってもたらされたものである。その渡来は時間をおいて幾度もあったものと考えられる。そして渡来元の地と渡来時期によってグループを形成し、そのグループが成長して古代豪族になったと考えられる。そのグループが大和族であり、出雲族であり、吉備族であった。これらのグループは渡来して安住の地を得るためにまずは先住民たる縄文人と戦わなければならなかった。この先住民たる縄文人が「鬼」である。半農業的性格を持つスサノオノミコトがその神話的表現であり、滅亡させた先住民の祟りを恐れて鎮魂のために建てられた神社は日本各地にあり、祇園祭というのはその鎮魂の祭りである。

 すなわち、「岡山」における「鬼」とは、吉備氏が滅ぼした先住民たる縄文人である。番組でも吉備津神社において祭神とは別に「鬼」が祀られていることが紹介されていた。

 

 吉備氏は一大勢力ではあったが、大和朝廷との関係は一貫して比較的穏やかなものであったと考えられる。(天皇の子の派遣による吉備氏討伐という話を今回の番組以外では筆者は知らない。)白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に敗れた当時、吉備氏は独立性が強いとはいえ、ほぼ大和朝廷の支配下にあり、唐・新羅連合軍の侵攻に対する危機感を大和朝廷と共有していた。したがって唐・新羅連合軍に対する防衛のため、大和朝廷の構想の下で「鬼ノ城」の築城、あるいはそれまであった城の整備が行われたのであった。(この点は番組の紹介と同じ。なお、「鬼ノ城」の築造技術は朝鮮半島に起源をもち、日本では類例がなく、そこに吉備氏の特異性があると考えられている。この点の番組での紹介はなし。)

 では、その城が「鬼ノ城」と名付けられたのはなぜであろうか?一つは「鬼ノ城」が山の上にあって、先住民たる縄文人が最後まで抵抗していた山間部への入り口的性格があるため、「鬼」という地名が残っていたためということが考えられる。もう一つは「鬼ノ城」がその後の時代において使われることがなく、放置され、忘却されてしまった結果、吉備津神社に残る「鬼」伝説に合わせるために後付けで「鬼ノ城」と命名されたということが考えられる。(こんなことはすでに調べられて結論が出ているはずだ。)いずれにしても吉備氏が「鬼」で、それゆえ「鬼ノ城」ということはありえない。