2019年11月8日
人間社会をも含む宇宙の原理のようなものを「真」と呼べば、その「真」を知ること、その「真」に則って生きることが人間にとっての究極的な「comfort」であろう。しかし、構成員の「comfort」の獲得を標榜する政治は決して「真」を追求しようとはせず、構成員の欲求をそのまま追認し、その充足を図る。すなわち普遍性を欠いた相対的「comfort」を追求しようとするにとどまる。
それに対し神秘主義は政治と異なって「真」を追求しようするものであるが、神秘主義がいかに「真」をもたらし、究極的な「comfort」をもたらすとしても、以下の理由により、神秘主義は私的空間にとどまるべきで、社会という公的空間、とりわけ政治の世界に神秘主義は入り込んではならないはずだ。
「真」に至る道として神秘主義をナンセンスとして捨て去ることができないことに多くの人が気づいている。神秘主義を直観主義、非合理主義といってもいい。理性の積み重ねというルート,すなわち合理主義では「真」に至ることはできないという認識がある。その認識に基づく、「真」への非合理主義的アプローチ方法、すなわちそれが神秘主義だ。その神秘主義が信頼されるようになっている。まことに結構なことであるといっていいだろう。
しかしながら、神秘主義というものの性格を踏まえた上での神秘主義の尊重でないと、神秘主義は世の中を乱し、人々を不幸に陥れることになる。
すなわち、そもそも神秘主義とは、個人的なものあるいは限られた人々との間でのみコミュニケーションが可能なものであって、一般とのコミュニケーションは不可能なものである。そこに神秘主義の本質がある。神秘主義が重要視する直観は同じ直観を経験していない他者には伝えられず、論理の飛躍(=非合理)は共に飛躍することができない人々にとってはナンセンスでしかない。神秘主義の神秘主義たるゆえんはその伝達不可能性であり、その到達した「真」の「真」たるゆえんを他者に説明することはできないものである。はやりの言葉でいえば、神秘主義は本来的にアカウンタビリティがない。一方、民主主義は合議をその根幹とする政治システムであり、アカウンタビリティをめぐっての競い合いである。コミュニケーションの成立が大前提であり、伝達可能な言語による論理の場である。神秘主義はこれらの条件を根本的に欠く。したがって神秘主義は民主主義になじまない。なじまないにとどまらず、背反し対立する。このような意味で政治の世界に神秘主義が持ち込まれることは民主主義の原則からいって決して許されないのである。
神秘主義がもたらしてくれるかもしれない「真」には人間についての「真」、その結果としての他者との関係についての「真」が含まれることになるだろう。しかし、それがいかに「真」であっても他者にそれを押し付けることは我々の社会のルールに反する。民主主義という社会のルールに合意した市民としては神秘主義からの主張は政治的には自制されなければならない。神秘主義を知った者は政治の舞台における市民としては自分にほおかぶりしていなければならないのである。
以上からすると、神秘主義の中ではかなりプリミティブなものではあるが、天皇制の採用には微妙なものがある。もちろん、神秘主義からのアプローチではなく統治の効率性の観点から天皇制を合理化しようという道がないわけではない。しかし、戦前の天皇機関説事件に象徴されるように、天皇制にはそれを許さぬというところがある。すなわち天皇制が目的のための手段であるという議論を拒絶するところがあり、その点が前面に出てくると天皇制は危険な制度となる。そして、天皇制のしっぽを引きずっている感のある叙勲制度、恩赦なんていうものも民主社会においてはあやしさを免れないのである。
民主主義というのは、ある断念である。神秘主義のテリトリーを制限し、「真」(=究極的な「comfort」)の追求を脇に置いてしまうという決断をしているのである。これを忘れて民主主義を単に礼賛するだけでは民主主義教育として極めて不十分である。