2019年10月10日
高校時代に現在の自分につながる重要な2つの知的原点がある。
1つは、思想哲学というとオーバーになるがそちら方面の関心の原点で、それは「般若心経」である。高2だったと思うが「倫理社会」のテキストとしてクラスの投票で「般若心経」が選ばれた。圧倒的多数だったと記憶している。お経などというものにそもそも意味、内容があるのかといった疑問がある中での野次馬根性的なテキストの選択だったとは思うが、級友たちの知的欲求の質の高さは尊敬に値するものだった。
これをきっかけに、その後、葬式仏教、坊主の金儲け主義、庶民の迷信、非知性的傾向などの仏教を忌避させる要素が壁となることはなく、東洋思想、そして西欧型近代知性の限界といった方面を知ることができた。このきっかけが無かりせば、自分はかなり今とは違う、窮屈な考え方の人間になっていたにちがいないと思う。
もう1つは、経済学を学ぶきっかけになった原点で、高3の「政治経済」の授業の中での外部講師による景気変動の仕組みの簡単な解説である。(その講師はその後、日本歴史学界のトップにまで上り詰めた。)その景気変動の説明を聞いて、世の中を知るには経済学から入るのが一番いいにちがいないという判断が生じ、大学は経済学部を選んだのだった。遺憾ながら、その後経済学を深く学ぶことにはならなかったが、その選択は「当たり」だったと、今、強く思う。マルクス主義経済学に触れることができ、資本主義の特殊歴史性(超歴史的な普遍的な制度ではなく歴史上のある段階において現われる特殊な制度であるという性格)を知ることができ、さらには経済だけにはとどまらない、社会全体の特殊歴史性という把握をすることができた。その結果、社会に対する上での相対的観点、常識を疑う立場を得ることができたのである。何らかの絶対的観点に立って社会に対することになっていれば、これまた自分は今とはかなり違う人間になっていたにちがいないと思う。
こう考えてみると今の自分というものがいかに偶然性の産物であるかということを思い知らされて、感慨深い。