2019年7月25日

 

 

 人間にはさまざまな欲望がある。それらの欲望はしばしば相互に矛盾し、ある欲望の実現のためには他の欲望を抑え、または断念しなければならない。すなわち欲望には序列があるわけだが、その欲望の序列の中で、すべての欲望を断念させ、すべての欲望の優位に立つ最高位の欲望というのがある。生命維持のためのさまざまな欲望よりも断然優位にある欲望である。

 

 

 その欲望を名づければ「自己肯定欲」ということになろうか。この欲望の存在は人々に十分意識されておらず、したがってこなれた名称がない。「自己肯定欲」というと積極的能動的な欲望のようだが、一部に「名誉欲」とか「選民願望」とかの積極的能動的な「自己肯定欲」もあるが、一般の人々の欲望のそのほとんどはそういうものではない。「自己を否定しないでいい」「自己を許容できる」「このままでいいのだ」という感覚、感情を持っていたい、あるいは「自分は存在価値がない」「自分は世の中から疎まれている」「役立たずだ」という感覚にさいなまれたくない、というような消極的受動的な欲望だ。しかし、消極的受動的なものだといってもその欲望は極めて強力なものだ。人間は自己肯定感の喪失には敏感で、その状態にはまったく耐えられない。自己肯定感を喪失した場合には他の欲望を振り捨てて自己肯定感を回復しようと人間は必至となる。「自己肯定欲」は人間にとって究極的な欲望なのだ。

 

 

 この欲望は人それぞれ、さまざまなかたちで充足されている。家族その他の小集団内での存在感からの自己肯定というレベルのものから国家、世界人類レベルでの貢献という自己肯定まである。人間を超えた自然、宇宙レベルを自己肯定の根拠とするものもある。形而下から形而上までさまざまなレベルの自己肯定の契機があるのだ。何を自己肯定の契機とするのか、どのレベルの契機が選ばれるのかがその人の個性とも考えられる。さまざまな人々のさまざまな自己肯定の契機の全体構造を文化ということができるかもしれない。

 

 

 昨今の凶悪犯罪には自己肯定感を得られずに自暴自棄になった人物が犯人となっている例が多いように感じる。その背景には、社会が人々に自己肯定の契機を十分に準備していないということと、社会が自己否定感を人々に押しつけるような仕組みになっているという2側面があるように思える。

 また、常識では理解しがたい要素を多くはらんでいる宗教が、科学が発展した現代においてもなお隆盛である理由は、宗教が人々に提供するものの本質が「自己肯定欲」の充足だからであるように思える。宗教とはすなわち、究極的な自己肯定感回復の仕組みなのだ。「悪人正機説」がストレートにそれを表わしている。

 

 

 自己肯定感回復への渇望が強まれば、人々は常識を一顧だにせず、理性を易々と飛び越える。「自己肯定欲」がしばしば異常を呼ぶのはこのためだ。