2019年6月10日
世間の耳目を集めるような、例えば残虐な、例えば狡猾至極な、例えば被害者への同情が募るような、そんな犯罪が発生すると、次のような考え方が強まる。
すなわち、善人は本来的に善人であり、悪人は本来的に悪人である。本来的な悪人でなければ、あのような犯罪をするはずはない。あのような犯罪を自分がしないのは、自分は善意しかなくて、悪意がなく、常識をもって生きているからであり、要するに自分が善人だからである。善人に迷惑を掛けたり、損害を与えたり、恐怖をもたらせたりするのは、本来的に悪人である悪人である。そういう悪人がいなければ世の中はうまくいく。悪人は排除されるべきである。犯罪者はなるべく社会に戻ってこないようにできるかぎり重罰を与えるべきである。このような考え方が強まるのである。善人たる自分に敵対するものはみんな悪人であると、考えが自分中心にさらに飛躍する場合もある。
言うまでもなく、極めて反科学的考え方である。
しかし、この反科学的考え方に反論しようとすると理屈っぽくならざるをえない。さらには、善人に対する反論だから悪人の考え方だ、あるいは悪人を弁護する考え方だと受けとめられてしまう。
犯罪が重大なものであればあるほど、犯人に対する憎しみが強くなればなるほど、理屈っぽい議論、実は科学性のある議論は退けられ、反科学的な単純な善悪二元論が優勢となる。
このような反科学的な考え方が世の中を席巻すると、世の中は確実に悪くなる、暗くなる、息苦しくなる。現実を見ない、実態から外れた、観念的な対応(善悪のレッテル貼り)がなされることになる。文化的であるべき社会が野蛮となる。ヒューマニズムの方向に洗練されてきた人類の文明が理不尽な方向に退行してしまう。
このような傾向に対して、それを放置せず、社会全体として意識的に対応する必要がある。