2019年6月6日

 

 

 引きこもり100万人というのは人類史上に例がないであろう。社会システム外の、生産活動に携わらない人間をそれだけ大規模に養える社会が過去にあったとは考えにくいからだ。

 しかし、引きこもりとはその形態がまったく逆ではあるが、原因は同じと考えられる歴史的事件が過去にあった。

 その歴史的事件とは幕末の「おかげまいり」あるいは「ええじゃないか」だ。それは数百万人の規模で発生したと言われている。(「ええじゃないか」のほうが言葉として有名なので、以下「ええじゃないか」としておく。)

 

 

 「ええじゃないか」は、社会の価値観、社会の秩序が急激に、根本的に変化するときに発生する集団狂気だった。(討幕勢力陰謀説もあるが、仮にそうだとしても集団狂気が発生しやすくなっている状況を討幕勢力が利用したのであって、集団狂気は潜在的にあったと考えられる。)

 変化の緩慢だった封建社会に近代の波が急激に押し寄せて、それまでの社会秩序が崩壊するという段階において、対応できない人々の集団狂気が発生したのだ。それまで無意識のうちに身についていた行動基準、社会での振る舞い方、作法を失って(たぶん無意識のうちにそれらに対する信頼性がなくなって、そのルールに服従しなければならないという義務感も失って)、たくさんの人々が狂ってしまったのだ。それまで無意識だった行動パターンに疑問が生じてしまったとき、人間は行動の判断ができなくなり、人間は判断を保留したまま狂うのだ。そしてそれまでの生活を捨て、「ええじゃないか、ええじゃないか」と歌い、踊って、お伊勢参りに行ってしまったのだ。それは行動が決断されたのではなく、判断保留としての現実からの逸脱だったのである。行動指針の崩壊ないし崩壊の予感がもたらす集団狂気現象、幕末はそれが「ええじゃないか」だった。

 

 

 現代日本社会においても急激な社会の変化により旧来の行動パターンの有効性、信頼性は大きく失われつつある。衣食住の変化、家族をはじめとする人間関係ルールの不安定化、日々押し寄せてくる日本中、世界中の様々な未経験の社会現象、旧来の行動パターンはこれらへの正しい対応を教えてくれない。対応は個人にゆだねられている。外部から与えられる大量の情報は正しい対応に導いてくれるというよりは、逆に混乱の原因となるように機能している。判断は保留されることとなり、現実からの逸脱を招くのだ。

 幕末の変化を超える大きな社会変化が現代日本社会に発生している。そこに何らかのきっかけ(いじめ、受験失敗、就職失敗、権威者からの人格否定等々)があったとき、それまでの自分がとっていた行動パターンへの無意識の疑問が一挙に噴き出してくる。そして行動判断の不能という事態を迎えてしまうのだ。現代日本社会ではその発現形態は「引きこもり」だった。「ええじゃないか」と発現形態はちがうが、「引きこもり」は、行動指針の崩壊ないし崩壊の予感がもたらす狂気現象なのだ。

 

 

 「引きこもり」に対しては、少なくとも以上のような歴史的現象であるとの認識に立って対応を考える必要があるだろう。小手先の対策が有効とは到底思えない。

 

 

 なお、平成から令和への転換において見られたお祭り的狂騒、政治性をはらんで本来冷静であるべきトランプ来日への対応に見られた国民の幼児性おはしゃぎ、この2つの現象は、「引きこもり」と原因を同じくしつつ「引きこもり」という発現形態をとらなかった、むしろ「ええじゃないか」的発現形態であった集団狂気の現われだったと筆者はとらえている。現代日本社会には、その社会的病理現象として、一方で「引きこもり」があり、一方で「馬鹿騒ぎ」があるのだ。