2019年3月21日
ニュージーランドの銃撃事件があって、その事件への反応として、相変わらずの、辟易とする、実りなき主張が繰り返されている。
すなわち、要するに「何よりも大切なのは命」、「その大切な命を民族の対立や宗教の対立によって奪うことは許されない。」という至極真っ当な、ヒューマンな主張である。
この主張を「物理的生命第一主義」と名づけておこう。「物理的」という形容を付けたのにはもちろん理由があるが、その理由は追って明らかにする。
「物理的生命第一主義」に留まって思考停止することは、平和主義を装った、根本的にものを考えようとしない、真の解決を目指さない怠惰である、と言いたい。
「物理的生命第一主義」は百年一日、千年一日のごとく主張されている。にもかかわらず、この主張に沿って民族紛争や宗教戦争が消滅したことはない。主張はされても効果はないのである。
なぜ「物理的生命第一主義」が無効であり続けるのか、が考えられなければならない。
「物理的生命第一主義」は、人間にとって最も大切なものを「命」としつつ、その「命」を「物理的生命」に限定してしかとらえない。その結果として、「物理的生命第一主義」では、物理的「命」と社会学的、人間学的概念である「民族」、「宗教」が別次元のすれ違いとなり、「命」と「民族」「宗教」との間に深い本質的な関係があることが、まったく看過されてしまっている。このことが「物理的生命第一主義」を実りなきものとしているのである。
「物理的生命」の限定にとどまらない、「物理的生命」を超えるところの、人間にとって大切な「命」とは何か?
それは次のような認識とともにある「命」、その認識に支えられている「命」である。すなわちその認識とは、「自己の存在の意味」「自己の存在の価値」「自己の存在の根拠」「自己の役割」「アイデンティティ」といったものの認識であり、その結果として人間は「自己肯定感」を得る。
群れる動物である人間は、群れの中での存在感無しに「命」はない。存在感無しに人間は生き生きと生きることはできないのだ。単なる「物理的生命」が維持されているだけでは人格を保つことが困難となり、人間は「生ける屍」の観を呈する。人間の「命」は物理的に維持されるだけでは不十分であり、これらの認識が備わることによってこそ、人間的な、生き生きとした「命」が実現するのである。以上の認識を便宜のために「自己存在感」という言葉で代表させておこう。「自己肯定感」を得る基礎となる「自己存在感」である。
「自己存在感」はどのような場合に得られるか?何によって与えられるか?
日常を思ってみれば「自己存在感」をもたらす多くの源に気づくことができる。「家族」「友人」「同僚」「勝利」「名誉」「尊敬」「眼差し」「拍手」「励まし」……。
これらはしかし、裏切られたという事例に事欠かないように、絶対性がない。一時的なもの刹那的なものでしかないのではないかという疑いを容れる余地をたっぷり含んでいる。
この弱点は「自己存在感」の確信を容易に揺るがせる。得られた「自己存在感」が一時的酩酊、幻覚、夢にすぎず、その根拠の薄弱なことに気がつけば、生き生きとした「命」は一転して自己否定と孤独の地獄に突き落とされる。
「自己存在感」の絶対性の欠如についての切実な不安は、そのような弱点を持たない、より絶対的な「自己存在感」の根拠の探求に向う。
そして「郷土」「歴史」「ルーツ」……と弱点のより小さく思えるものを次へ次へと探していけば、最強軍団として「民族」「宗教」が待っているのだ。
何千年、何万年の民族の歴史に連なる自分、天地創造者・絶対者・神によって役割を与えられ、位置づけられている自分、そういう自分を見出すことによる「自己存在感」、これは一時的、刹那的、不確実ということにはなかなかなりにくい。このような「自己存在感」を得ることができたことによる不安からの解消、その安定感、快適感の素晴らしさは容易には放棄することはできない。これを否定する者があれば、我が「命」の根拠を奪おうとする者ということになる。断じてそれらの者たちを許すことはできない。
かくして「民族」に敵対する者たち、「神」を否定する者たちは、究極的なこの世の悪魔となる。その者たちの「命」など一顧だにする価値なきものとなる。消滅させることがむしろこの世の正義となる。
以上の論理がこの世の平和の実現を妨げる根本的な論理である。ヒューマンな需要が生み出したアンチ・ヒューマンな論理である。この論理と真っ向から勝負しなければ、真の平和主義とは言えない。勝負することなく、「何よりも大切なのは命」、「その大切な命を民族の対立や宗教の対立によって奪うことは許されない。」と正義漢ぶった主張するのは、よく言って「単なる犬の遠吠え」、悪く言えば「実は同じ論理に立っていて同罪である自分のための隠れ蓑」でしかない。
「民族」「宗教」を「自己存在感」の根拠としてはいないか、を反省してみなければならない。「民族」「宗教」が「自己存在感」の根拠に果たしてなり得るだけの絶対性を有するのかが吟味されなければならない。そしてさらに、「民族」「宗教」を「自己存在感」の根拠とするように我々の社会はキャンペーンを展開して、構成員に強いていること、「自己存在感」はその結果としての、すなわちマインド・コントロールの結果としての「自己存在感」でしかないことを自覚しなければならない。
結局、我々は「自己存在感」の根拠としての「民族」「宗教」をフィクションとして捨てることになる。我々は郷土を持たない浮浪者となる、父なる神を持たない孤児となる。「平和主義」はここから出発する。「平和主義」の出発は、同時に、浮浪者、孤児となった我々が「自己存在感」の新たなる根拠を探求する旅の出発でもなくてはならない。ここから出発していない外見だけの「平和主義」は、浮浪者となること、孤児となることの恐怖からの「敗北主義」であり、「不徹底平和主義」あるいは「的外れ平和主義」である。