2019年1月28日
テレビを見ることが少なくなって、だれでも知っているタレントの名前もほとんどわからないという状態にいる。大衆芸能を語る資格はほぼ喪失している。大衆芸能を遠く、はるかに見ている。
そんな筆者だが、何となく大衆芸能が心配である。大衆芸能が大衆の慰藉になっていないのではないか、むしろ大衆に圧力になっているのではないか。そんな心配である。
大衆は日常的、世俗的価値体系に苦しめられている。日常的、世俗的価値体系は大衆をその最下位に置くことによって大衆を抑圧している。その日常的、世俗的価値体系を一時的に忘れさせる、一時的に破壊する、一時的に無価値化する、一時的におとしめる、そのことによって大衆に一時的慰藉を提供する。それが大衆芸能というものの役割のはずだ。
そして確かに大衆芸能はそういうものを提供している。しかし、一方でそれに反するものも提供してしまっているとすれば、大衆芸能は結果的に反大衆的なものになってしまうおそれがある。
大衆の一時的慰藉に反するものとは、具体的には努力主義、ガンバリズム、すなわち努力によってこそ何ものかを得ることができる、逆に言えば、努力しないものには何も与えられないという思想である。努力、修行、精進、専心、切磋琢磨、粉骨砕身、不惜身命といったものを奨励する考え方である。
もちろん芸の上達、芸の洗練に努力主義、ガンバリズムは不可欠である。大衆芸能で身を立てている人々の今日に至るについては、それらが必要であったことを否定するわけではない。それまでの努力、ガンバリは賞賛に値するもの、尊敬すべきものと考えている。
しかし、マスコミという権威のもとで成功者となっている芸人がそれらをあからさまにすることをいささかも躊躇せず、むしろ積極的に表に出していけば、立つ瀬がないのは大衆である。成功者でないことについての自己弁明を求めてさまよっているのに、成功者となっている芸人に自分の努力、ガンバリの不足が突きつけられるのである。慰藉を求めて大衆芸能に近寄ったら、努力、ガンバリの不足を糾弾されてしまうのである。
大衆芸能がそういう場であったら、大衆は静かに大衆芸能から去っていくほかはない、しかし、だからといって大衆に行くべきところもない。大衆芸能は努力主義、ガンバリズムを表に出さないという知恵を忘れて、そういうふうに大衆を追いつめてはいないだろうか?賢くて、弁が立って、健康そうな大衆芸能を遠く、はるかに見て、そんな心配をしている。