2018年11月19日

 

 

 般若心経に関心があることを知った方に対して、親切心で、般若心経の最新版の現代語訳を提供したところ、思わぬ反発を受けることになった。

 曰く「神仏への信仰のない人の現代語訳など、いただいても意味がない。読む気にも、感想を述べる気にもならない。」

 考えてみれば、誠にもっともな考えというほかはない。

 浅薄な知識の、頭の体操をしただけの、中途半端な合理主義者の考えなど、信仰ある人の立場に立てば価値があるはずもない。

 思い起こせば、これに近い経験は過去にもあったのだった。

 

 

 クルアーン(コーラン)を岩波文庫で拾い読みし、その反ヒューマニズムの記述に驚いて文章にしたところ、ある日本人のイスラム教徒の目に触れることとなり、激しいお怒りを受けたことがあった。

 曰く「クルアーンをちょっと見ただけで、しかも日本語で、そんないい加減さでよくもクルアーンを批判したものだ。クルアーンは全体として、それをアラビア語で唱えることによって、はじめて感じとることができるものだ。もっとまじめに対応せよ。」

 

 

 また、キリスト教系の小さな信者組織が運営していて信者がホステス役を務めている博多・中洲のクラブで、その信者ホステスに対し、聖書の多くの記述が科学的にナンセンスであることが判明していることをどう考えているのか、信仰はそれでも維持できるのか、といういじわる質問をした。

 その答に曰く「信仰とは直観です。」

 

 

 筆者の無信心がその後変わることはないが、これらの経験から、宗教の非合理性と正面から向き合って、その上で敢えて信仰を選び取っているという強い精神をもつ人々への尊敬が多少は培われることになっているとは思う。