2018年10月5日
「赤旗」の報道によれば公明党所属の石井国交大臣を除く安倍内閣の閣僚全員が「神道政治連盟国会議員懇談会」、いわゆる「神政連」に加盟しているという。国民の一般的状況からすれば、極めて偏った、異常なメンバー構成と感じざるを得ない。
いったいなぜそのようなことが発生するのだろうか?
その成立の経緯、メンバー、主張等から推定すれば、「神道政治連盟」の「神道」とは、決して「神道」一般ではなく、近代の産物である「国家神道」をいっていることがわかる。
「国家神道」とは神道の中では極めて特異な位置を有するものである。にもかかわらず、多くの政治家がそれを信奉し、政治的に結集している。
「和魂洋才」、古くは「和魂漢才」という言葉が象徴するように、技術的知識は「洋」あるいは「漢」に依存するとしても、本質的に大切な「魂」「心」として日本人は「和魂」、「やまと心」をもっているというのが「神道」の基本的考え方である。「やむにやまれぬ大和魂」というような乱暴で軽薄な精神ではなく、「もののあはれ」を知るといった深みある精神である。
にもかかわらず、近代国家として世界の列強と伍していかなければならなかった明治国家は、維新においてその思想的根拠とした「神道」を、国家目的遂行に資するものとして、とりわけ社会秩序維持に資するものとして再構築する必要に迫られた。その時に採用された方法が、「神道」への「儒教」の取り込み、「儒教」との妥協であった。「儒教」は江戸時代において一般に十分に浸透し、倫理道徳として常識化していた。それゆえ「神道」への「儒教」の取り込みには抵抗が少なかったのである。
しかしながら「儒教」とは「神道」にとって中国由来の「漢意(からごころ)」であって、「神道」の立場からすれば本来採用すべきものではないはずのものである。しかし、常識化しているという都合のいい状況に乗じて、儒教がその最終目的を「治国平天下」においていることから天皇制との矛盾を回避できるという可能性に着目して、目的のためには手段を選ばなかったのである。
すなわち、「神道政治連盟」の「神道」、すなわち「国家神道」とは、国家優先、秩序優先、すなわち個人軽視に帰結することになる「儒教」に換骨奪胎された「神道」である。
安倍首相は自身の志向である国家優先、秩序優先という観点から「神道の鬼っ子」である「国家神道」を信奉する人々からなる内閣を組織したのである。激変する思想状況、それがもたらす秩序の混乱に対して、「儒教的道徳」を対置し、「儒教的秩序」を求める政治家たちによって構成された、しかしそれを決して「儒教」とは言わずに「日本的何とか」という内閣、それが安倍内閣である。
そして、「神道」の中に入り込んだ「儒教」には次のような非現代性がはらまれている。
すなわち、中華思想を根本とする「儒教」にとって「天下」とは中国社会だけを意味した。その外は夷狄、未開、野蛮であって排除されるべき外部、社会の構成要素とは位置づけられない問題外の世界であった。「儒教」はある意味での単一の中華文明の思想だったのであり、地球全体をカバーすることができない狭い思想であった。
さらに成人男子が人間としての完全な存在であって、女・子供は不完全な人間という根本的な差別思想が「儒教」には流れている。「儒教」は士太夫という男子エリートの思想である。
今日、多文化社会という言葉があるが、それは単に客観的に多様な文化が存在するというだけではない。統一化が困難な多様な文化が世界の中で共存していかなければならないのだという認識を示す言葉である。このような認識からすれば、「儒教」の有効性は極めて限られたものでしかなく、逆に多くの否定的内容を含んだものと考えなければならない。また、漢民族の成人男子だけを人間としてとらえるというような考え方は、アメリカでのWASPでなければ人間でないという差別思想と通ずるものがあり、現代において到底通用するようなものではない。
秩序混乱を嫌うとともに、「儒教」が有しているこのような非現代性を非現代的という認識もなく、かえって好ましく思う政治家たちが安倍内閣に結集している。
政治家として道徳性の旗を高く掲げたい。しかし、旗として掲げる道徳性をみずから探し出す意欲も能力もない。だから今や時代遅れの「国」「地域」「家族」「秩序」に寄りかかる。そんな政治家が安倍内閣に結集している。
政策的な限界はおのずから明らかであろう。
なお、「国家神道」を信奉した彼らの先輩が日中戦争、太平洋戦争という大罪を犯したことを彼らは認めない。それを認めることは彼らの信奉する「国家神道」の誤りを認めることになるからである。客観的事実を客観的事実として認めない、問題を技術的次元のことに矮小化する、彼らはそういう共通点をもっている。したがって彼らのもとでは「歴史」がゆがむ。ゆがんだ歴史は積極的なものを生み出しえない。このことも付言しておきたい。
文部科学大臣が「教育勅語」という儒教的文書に関する発言をめぐって早くも追及を受けている。追及を受ける根本原因は大臣の発言がアンナチュラルだからである。「教育勅語」を否定できないという立場が前提にあり、その後に肯定する理由を無理に作り出すのでアンナチュラルになるのである。頭脳明晰でも、その頭脳を使わなければ何の役にも立たない。安倍内閣にはそういう運命をみずから選んだ閣僚もいるのではないかと思う。