2018年9月3日
植松聖君、キミは人々が持っている大きな間違いを象徴し、代表してくれているから、その大きな間違いの部分に語りかけるに際し、キミの名前を貸してもらうことにする。
植松君、キミは「社会」というものを大事に思った、この世で最も大事なものに思った。だから、その最も大事な「社会」にとってお荷物になる存在、負担になる存在を否定しなければならないと思った。そして、その否定の役割を自分が果たすことによって自分が「社会」にとって価値ある存在になれると考えた。
それで、キミはあの凶行に及んだんだね。「社会」のためになることをするのだから、それは正義だと思ったんだね。
植松君、そこにキミの焦りがあったね。価値ある存在になりたい、正義を行う者になりたいという焦りがあったね。その焦りにキミを追い込んだのは誰だったのか?何だったのか?いずれにしてもキミはその犠牲者だ。加害者として裁かれるとともにキミは犠牲者、被害者として裁かれなければならない。
植松君、キミに焦りがなかったならば、キミが大事に思う「社会」とはいったい何なのか、ということをもっと考えてみることができるはずだった。だけど、焦りがあったから、キミは「社会」とはいったい何なのか、全然考えていなかったね。考えていなかったというよりは、だいたいそんなふうに誰でも考えているにちがいないという推定で「社会」を考えてしまったね。
植松君、キミを本当に気の毒に思う。キミだけでなく、「社会」の多くの人々は、みんなが「社会」というものをこういうふうに考えているにちがいないと思っているだけで、自分自身では突き詰めて考えているわけではない。そういう意味ではキミと大きな差があるわけではないのだ。キミの焦りが強かったのか、少しだけキミのほうが突き詰めてものを考える人だったのか。いずれにしても、行為に及んだという点でキミは突出したわけだが、自分で考えないで、世間の相場で生きているという意味では、人々とキミの間に大きな違いはない。
植松君、「社会」とは言うまでもなく人々の共同体だ。だから、キミが考えるべきだった第1点は、その共同体を構成している「人々」とは誰のことかということ。第2点は人々は共同体に何を求めているか、あるいは何ゆえに人々は共同体を形成しているのかということだ。
植松君、キミは「人々」とは誰のことかについてちゃんと考えなかったね。施設での経験による障害者への反発心があり、それを追認してくれるがゆえに、フリーメーソンの考え方を採用したね。理性こそ人間の価値という考え方は長く西欧社会を支配してきた考え方ではあったけれど、それは間違っていたということに気づいたのが現代なのだ。キミは時代遅れだったのだ。
人々は共同体に何を求めているか、あるいは何ゆえに人々は共同体を形成しているのか、ということについても、キミは早とちりをしたね。世間でふつうに考えられている「豊かさ」「健康」「秩序」「平安」といったものだけを共同体が提供するもの、それらを確保するためにだけ共同体は形成されていると考えたね。たくさんの人々がキミと同じように考えているから、この点でキミが間違ったのも無理からぬところではあるだろう。しかし、必ずしも意識されてはいないが、人間の共同体は「無意味をいかに生きるか」という人々の煩悶、努力、苦闘の場なのであり、それをお互いに見つめ、人々が自分と同じ煩悶、努力、苦闘をしていることを知り、その仲間への共感により煩悶、努力、苦闘を続けていく意欲をもらう、それゆえに「無意味が生きられる」、そういう共同体なのであり、それが人間の共同体の本質なのだ。人間の共同体は決して「食う、寝る、遊ぶ」だけの共同体ではないのだ。この点にまったく気づかなかったことおいて、キミは大きな間違いをしていたのだ。
誰かによって焦らされ、わずかな人生経験で「社会」を理解しようとして早とちりをしたキミは、かわいそうな犠牲者だ。
キミを極刑に処すること、しかも早急にそれを行うこと、それを求める声が大きくあるが、社会はそんな矮小なことを目指すべきではない。
早とちりをしたことをキミに気づいてもらうこと、そして、できればいったいどこをどう間違ったのか、キミがキミの言葉で表現すること、社会はそのために努力すべきだろう。
キミの気づきが得られなければ、社会は失敗したことになる、敗北したことになる。キミの気づきとその表現が実現すれば、それはわれわれの社会の大きな成果となる、勝利となる。