2018年8月18日
ファシズムになったら、というような認識は甘いのかもしれない。現状維持をよしとするプチブル意識によって、正義に反するか否かということにはお構いなしに、既得権侵害をもたらす改革は許さないという世の中に落ち込んでしまっている日本社会は、すでにファシズムと名づけられるべき状態なのかもしれない。かつて多くのファシストがファシストとしての自覚がなかったのと同様に、我々は無自覚のままファシストとして理不尽な抑圧を罪なき人々に加えているのかもしれない。だから次の話の条件は、正確には、日本社会のファシズムがさらに進行すれば、というのが適当であろう。
安倍三選後にフルスペックの集団的自衛権を容認する憲法改正が行われて海外派兵が法的に可能となり、国民が特定国への怒りに誘導されて戦争志向に一気に高まっていったとき、ファシストと化した一般国民とか庶民とか大衆とかいう抽象的な存在ではなく、具体的な「あなた」によって、多数派となっている「あなた」によって、私の考え方を熟知している「あなた」によって、私は密告され、「共謀罪」という便利な仕組みはすでに用意されており、社会的に私は抹殺されるであろう、
正直、誠意、友情、善意等々の甘っちょろい精神などはファシズムの前では何の力にもなりえない。ファシズムとは、既得権への執着でしかない、みみっちい思想が大げさな衣装をまとったものでしかない。しかし、そのファシズムがひとたび力を獲得し、社会全体に吹き荒れ始めたとき、いささかなりとも「あなた」に既得権への拘泥があれば、正義と悪の区別に曖昧さを許す隙があれば、反ファシズムという強い自覚が「あなた」になければ、世間から反社会的分子と糾弾されることに「あなた」が少しでも恐怖していれば、死んでもファシズムと戦うという明確な決意が「あなた」になければ、「あなた」はファシストの自覚なく、私を密告する者となるであろう。
あり得ない、荒唐無稽、マゾヒズム、被害妄想とお笑いになるのかもしれない。しかし、歴史的事実がこれを教えるのである。かつて数多くの人々が昨日の仲間、昨日の友人、昨日の隣人の庶民感覚によって、すなわち日常的生活意識の延長によって密告され、強制収容所送りになったのだ。ファシスト・密告者は主観的にはイノセントなのだ。そのことを考える時、明日の「あなた」がこわい。