2018年8月4日

 

 

 (この標題で書くのは今回がはじめてではないかもしれない。)

 

 

 今回、「犬」とするのは、ボクシング連盟会長山根明、自民党衆院議員杉田水脈、法人としての東京医大である。

 彼らの罪状を上げるのは字数のムダだから省略する。

 

 

 魯迅が「水に落ちた犬を打て」と言ったのは、敗者に情けをかけてやっても、その敗者が倫理道徳を失っている者ならば、倫理道徳を知らない犬のごとく、情けを恩義と感じることなく、機会をとらえて再び反抗してくるだけとなる。そのような敗者は徹底的に反抗不能となるように処置しなければならないという意味である。

 

 

 山根、杉田、東京医大とも、その言葉と行動は、いずれも確信犯的なものである。罪の認識の程度において3者に差はあるものの、いずれもその言葉と行動について自己正当化が図られている。自己正当化が図られたうえで、彼らの言葉と行動は発せられている。したがって、世間の動向を見ての反省的言辞が多少はあるものの、自己正当化の論理は頑なに維持している。このような者の言葉と行動の再発防止には、反省を迫るというような甘ちょろい対応ではまったく不十分である。自己正当化の論理は彼らのアイデンティティとなっているのであり、反省を迫るなどという微温的な対応でアイデンティティの放棄(=自己否定)がなされるはずはないのである。まさに「水に落ちた犬を打て」という対応しかないと言わなければならない。

 

 

 彼らはまだ現状では水に落ちてさえいない。まずは彼らを水に落とすこと、次に水に落ちた後も彼らを打つこと、これが必要である。

 

 

 しかし、よくもまあ、これだけの者がいっぺんに登場してきたものだと呆れる。そして冷静に考えれば、彼らは氷山の一角であって、彼らを支える勢力が隠然と控えていることに気づかざるを得ない。さらにその勢力を支えることになっている一般大衆レベルの保守的、差別的心情、カッコつきの「常識」といったものがあることに気づかざるを得ない。

 「水に落ちた犬を打つ」ことの真の意義は、その「水に落ちた犬を打つ」ことが彼らを支えてきた勢力、その勢力を支える心情・「常識」に対する闘争であるところにある。山根、杉田、東京医大は、オレオレ詐欺の「出し子」にしか過ぎないのだ。