2018年8月1日

 

 

 野村萬斎氏が東京五輪の芸術監督に任命されたとか。悪名高き東京五輪への積極的関与だから、この任命受諾に対しては芸術・芸能の世俗権力への迎合だとか、媚びへつらいだとか、批判の余地はいくらでもあるだろう。しかし、萬斎氏にとってみればそんなことはとっくに「承知の助」ということだろう。

 芸術・芸能が世俗権力と妥協し、権力をパトロンとして生きていかざるを得ないというのは、物的富を生産するわけではない芸術・芸能にとってみれば、宿命というものである。そのような宿命を敢えて受け容れた上で活動を展開するところに芸術・芸能の醍醐味があり、芸術・芸能を洗練させる契機の一つがあるとも考えられる。

 

 

 映画「花戦さ」で主人公・池坊専好を演じたのが萬斎氏だった。秀吉に強いられた千利休の切腹、それに対する池坊専好の怒りの対応を描いた映画である。題名が直接に表わしているように「花」による世俗権力(秀吉)に対する「戦さ」である。ここでみごとに池坊専好を演じきった萬斎氏が芸術・芸能と世俗権力との緊張関係に無意識であるはずがない。汚れた噂の絶えない東京五輪での芸術監督への就任が、ある覚悟のもとに行われていると考えることに間違いはなかろう。

 

 

 もちろん、彼はそのことについて何も語らない。彼はすでに演技に入っている。彼は世俗権力に対する芸術家としてのメッセージを発する。そのメッセージがどのような表現をとるのか、それは我々には事前にはわからない。我々の社会、そして我々がもっている表現手段についての彼の総合的理解から彼の表現が生まれる。それは当然にして世俗権力が有している社会観、人間観、芸術観に対抗するものとなる。それはいったいどのようなものなのであろうか?穏やかなものであるはずがない。期待が高まるのは当然であろう。

 

 

 コンピュータグラフィック、レザー光線、花火、集団パフォーマンス、爆発音、それに重なる感動強制的NHK的言語、そんなものであることがわかったら3分で見るのをやめる。そんなものではない、どんなものを見られるのか、ほんの少しだけ五輪に関心が湧いてきた。