2018年7月18日
「存在一性論」というのがある。
我々が存在と考えている、例えば花、ヒト、石、は、無限の在り様のある「真の存在」の1つの在り姿、1つの現象である、という考え方である。その結果、表題のような「存在が花している」という文章が生まれる。「存在が○○している」という○○にすべての名称が入る。名の付くものすべては「真の存在」がある日ある時に採った一時的な姿と考えるのである。この観点からすれば、花、ヒト、石の区別は一時的なものであり、花、ヒト、石はそもそも同一存在ということになる。当然のこととして私とあなたも同一存在ということになる。同一存在の現われ方の違いであるにすぎないということになる。
この「存在一性論」は現代科学の方向と一致している。科学の最先端といえる素粒子論はより根源的な粒子を求めている。科学が究極的に根源的粒子を見出すに至った場合、科学は「存在一性論」に帰結したことになる。
「存在一性論」を唱えたのはイスラムの学者イヴン・アラビー(1165~1240)であり、それを日本に紹介・導入したのは井筒俊彦(1914~1993)である。
「存在一性論」の考え方に立てば、世界の宗教は統一することができるという展望が生じる。それは科学とも統一されるかもしれない。「一性」たる「存在」は「神」「絶対」等々と名づけうるからである。
「存在一性」に何らかの「秩序」「ルール」「法則」があると考えれば、それはカッコつきの「西洋思想」ということになり、そんなものはそもそもないと考えれば、それはカッコつきの「東洋思想」となり、あると信じて探究するがないかもしれないというスタンスとなれば、それは「科学」の立場となる。「科学」が「西洋思想」と「東洋思想」との調停者の役割を果たすことになる。
人類はいずれ滅亡に至るとしても、それまでの間にまだまだ素晴らしき展開が待っているようだ。その素晴らしい展開の妨げの側となるのか、促進する側となるのか、その自省が重要だ。