2018年6月13日
ある蕎麦屋で7、8人の高齢の男たち、とはいっても60代半ば程度のまだ精気を残している男たちが、たぶん同期生あるいは職場のかつての同僚という感じで、したがってある程度の期間をおいた久しぶりの再会を喜び合うという挨拶から始まる会合を開いていた。
やや離れた席でひとりビールを飲んでいた小生は、その後会うことになっている強い天皇制擁護論者の友人に対してどのように天皇制廃止論を展開しようかと考え、かつて天皇制廃止論を述べる際に使っていた「虎の威を借りる狐」という言葉を思い出し、これでいけば反論の余地はなかろうなどとほくそ笑んでいた。
ふと気がつくと、あの男たちは熱心にサッカーについて語り合っているのであった。サッカーに関心がまったく無い小生でも無理やりに知らされてしまう、チームに日本という冠を載せて出場する大きな国際大会についての監督、選手たちについての話だった。
彼らはサッカー解説者と言えるくらいにサッカーについて詳しく、監督、選手たちに詳しいのであった。本気でやるものなのかどうか小生などは疑問に思っている練習試合の内容についてもよく知っており、そのことについて侃侃諤諤の議論を繰り広げているのだった。(大相撲の巡業での勝ち負けが本場所の参考になるというような話は相撲の世界では聞いたことがない。)
小生はふと気づいて、あっと思った。彼らは代弁者なのだ。代弁者たちの代理戦争なのだ。いくつもの番組で何人ものサッカー解説者が様々な情報、見解を述べているのを見てきて、それをこの場で代弁しているのだ。彼らの侃侃諤諤の議論となる原因は、見てきた番組がお互いに少し違っていて、その結果彼らが代弁するサッカー解説者の見解が微妙に違うからなのだ。そして、おそらく、解説者たちの意見の食い違いの背景には放送局の作戦があると思われる。すなわち、放送局は他局を意識して一定の視聴率を確保するため、あちらが楽観論ならこちらは悲観論、あちらが技術論ならこちらは精神論、といった解説者の配置を考えているにちがいないのだ。そして本番前の練習試合が極めて重要な意義を持つということについてだけは、利害共通事項なので、どの放送局もまったく意見の相違がないのだ。すなわち、ある意味で居酒屋の男たちの議論はすでにたくらまれ、予想され、作られていたものにすぎない。彼らは踊らされているだけなのだ。
それで酒がおいしく飲めるならそれでいいではないか。確かにそれもひとつの考え方だ。しかし、ひとりでゆっくり酒を飲むという良さを実は放送局連合に奪われてしまっているのではないか、という考えも成り立つ。
余生およそ20年、マインドがコントロールされるのは不可避だが、サラリーマン意識で業績をあげようというような低劣なレベルからのマインド・コントロールを受けて生きていくのは、はなはだ面白くないのではなかろうか。
残り少ない人生だ、マインド・コントロールされないようにスポーツ番組、スポーツニュースは消音で観よう!とは、話しがちと小さいか?