2018年5月30日
最近「出家」、「消去」という2単語に遭遇した。本論はこの遭遇をきっかけに記すものである。
仏教の修行とは何を目的とするものなのか、これを考える。言うまでもないが、全くの素人考えである。
人間には様々な感覚がある。わかりやすさのため、そのうちの快・不快という感覚を例とする。快・不快の感覚のうちの他者に基因する人間関係の快・不快を例とする。
日々の人間関係において我々は絶えず快・不快の感覚を持つ。
この現象を2つの要素に分ければ、原因たる事実の存在とそれを快・不快に仕分ける機能を持つ自分という存在ということになる。
原因たる事実とは、他者の言動、あるいは他者の存在それ自体である。その原因たる事実は確かに存在しているのか、という問題がある。その問題を仏教は取扱うが、本論では割愛する。
本論では快・不快を仕分ける自分という要素のほうを問題にする。
快・不快、その中間には連続的な変化があり、様々なバリエーションがあるが、いずれにしても「仕分ける」という作用がある以上、何らかの基準・物差しが機能しているはずである。
ある人物のある言動に対してAさんはある「快」を感じ、Bさんはある「不快」を感じる。同じく「快」を感じたとしてもその程度と質は異なる。Aさんの基準・物差しとBさんの基準・物差しが違うので、原因たる事実が同じでも、その判定結果が違ってきてしまうのである。
快・不快の原因となる事実に対する反応について他者との違いがある。この他者との違いの経験の膨大な集積によって人間は自己意識を持つ。根源的な自己意識の発生は別のところに根拠があるかもしれないので、念のために自己意識が強化されると言っておこう。いずれにしても、そこに自分というものがある、自分がいる、自分は自分だという意識が強まることになる。
ところで、他者とは違う自分という自覚をもたらせた原因となる快・不快を仕分ける独自の基準・物差しを自分が持っていることは間違いないとしても、それは自分のオリジナルなものか、外部から与えられたものか、それはいったいどこから来たものなのかという問題がある。
仏教はそのことを根本的に、徹底的に問題にする。(キリスト教では人間は神によって創られたものであり、当然に快・不快を仕分ける基準・物差しも神によって与えられたものなので問題にならない。)
そして、仏教ではオリジナルなものはゼロという結論に達する。そして、快・不快を仕分ける基準・物差しは人間たちが作りだしたものであって、絶対的なものではなく、絶えず変化し続けているものにすぎないとする。そうなれば快・不快それ自体もこだわる意義などないということになる。そんな当てのない、不確かなものに一生振り回され、苦悩を続けることはないであろうということになる。
その認識に至った状態を仏教で「無我」「無私」「無心」などという。その境地に至れば「苦」から脱することができることになる。理屈だけではなく心底からその境地に達するための手段・手法が仏教の「修行」である。
この「修行」に入ることを「出家」という。「出家」すると死後、家の墓に葬られないらしい。それを嘆く話に遭遇したのが、本論のきっかけになった。
「家」とは快・不快を仕分ける基準・物差しの体系を成すものと考えることができる。現実に両親から、家族から引き継ぐことになった自分の精神的傾向は否定しがたく、極めて大きなウエイトを占める。「家」を民族、国家、社会に広げれば、それが提供する基準・物差しの体系は「文化」というもので、我々の精神的傾向は極めて大きくそれに規定されている。
そんなものは人間が勝手に作り上げたもので、無根拠の砂上の楼閣、幻想、蜃気楼にすぎないと仏教は断ずる。そしてそれこそが「苦」の原因だとする。
すなわち、仏教で「出家」とは、このような快・不快を仕分ける幻の基準・物差しの体系から自らを開放し、「苦」から脱するということになる。(そういう意味ではナショナルな仏教宗派というのは仏道に反するものだ。)
ちょうどトーマス・ベルンハルトの小説「消去」を読書中であった。ベルンハルトが仏教に関心ある人かどうかはまったく知らない。しかし、「消去」という題名は「家」によって自分の内部に刷り込まれた価値体系を消し去るという意味のようであり、「出家」の発想に通じるところがあると気づいた。これも本論のきっかけとなった。
2つの単語との遭遇が頭の体操をさせてくれたわけだが、こういう頭の体操を仏教は矮小矮小と笑っている。