2018年5月17日

 

 

 日大アメフット・悪質タックル事件、その裏話的情報はまったく驚くべきものだが、監督の指示の有無とか、野蛮なプレーをした選手(選手Aとしておく。)の個人的背景とか、様々な野次馬的探求は週刊誌、テレビ報道番組にまかせておけばいいだろう。そのようなことにかかずらわって、けしからぬことが当然であるものを「けしからぬ、もっと重罰を」と騒いでいるばかりだと、事件がはらんでいるもっと大きな問題への視点が妨げられてしまう。

 

 

 考えるべきことは、選手Aは無警戒の人間を背後から襲うという野蛮なタックルを何のためらいもなく、平気で、むしろ英雄的な気分でやってしまっているということだ。スポーツマン精神とか、道徳とか、相手に与えるダメージ(あのような危険なタックルは相手に不治の身体障害を与える恐れがある)とか、必要な一切の考慮なく、あのような卑劣な行為をやってしまっているということだ。常識ある人間であれば、あるいは常識が選手Aにおいてその時に働いているのであれば、絶対にやらないはずのことを、選手Aは公然とやってしまっているということだ。

 そのようなことは外部からの、意識的な、時間をかけた働きかけが選手Aに対してなされなければ、絶対に発生しないはずのことである。いったい選手Aをあの行為に至らしめたものは何か、それが問題の焦点だ。

 

 

 選手Aは日大アメフットクラブの中で教育されてきたのだ。選手Aは、仮に監督の具体的指示があったとすれば、その場合には、忠実に、何ら個人的意思を介在させることなく、その指示に従うように躾けられてきたのだ。仮に監督の具体的指示がなくても、監督の抽象的な奨励・示唆の言葉によって、監督の意向を忖度し、自分を消して、監督から示唆されていると判断する行為を実行するように訓練されてきたのだ。監督からの働きかけがたとえ無くても、勝利につながる行為としてあの行為をすることに問題がないと洗脳されてきたのだ。

 

 

 そして、この教育、躾け、訓練、洗脳は、チームの勝利、組織の栄誉、大学の名声といった目的の下で遂行されてきたことは容易に推測される。

 選手Aは、彼が上位の目的と信じ込まされたもののための「兵士」となるように大学生活の中でじっくりと改造され、人間性を徐々に奪われたのだ。

 選手Aが受けた精神的な歪みは、彼が社会人となったときに彼の生活に何らかのダメージを与えることにもなっていたであろう。

 有名大学に入れることができ、華やかなスポーツクラブに入った息子の成長を喜んでいた両親にとっては思いもかけないことであるにちがいない。

 彼らの息子は非人間的改造を施されてしまっていたのである。

 

 

 敢えて言うまでもないが、「兵士」を作るということはこういうことだ。戦争における各種の残虐行為は、このように作られた兵士たちによって引き起こされたものだ。戦争というものはこのような「兵士」の製造を社会に強制するものなのだ。

 そして、若者たちを非人間に改造するお詫びに本人とその家族に提供されるのが、英雄としての名誉であり、勲章の授与であり、かつて我が国では靖国神社へのお祀りであった。

 日大アメフット・悪質タックル事件が教えてくれるのは「兵士」製造の悲劇性だ。