2018年4月28日
セクハラにしろパワハラにしろ、防止するために一般的に要求されるのは道徳性である。被害者となる人間の人格を尊重せよ、被害者の受ける精神的肉体的打撃に思いを致せ、被害者の感情、気持ちを想像する心を持て、等々である。そのことに決して間違いはない。だから道徳性を高めるための諸々の指導、誘導、教育などが無駄だというわけではない。
しかしながら、そのような要求には「ないものねだり」の感がしなくもない。
というのは、ハラスメント発生の根本的原因は、加害者の言語能力、会話能力の不十分性であり、その点の改善がなされないとハラスメント問題は解決の方向には向かわないからだ。道徳性の欠如よりはよりこちらのほうにハラスメント問題の本質があるからだ。
世の犯罪をなくするためには人々の道徳性を高めればいい、道徳国家は良い国家という考え方の不十分性と同じ不十分性がハラスメントの防止に道徳を持ってくる考え方にはあると言わざるを得ない。それでは百年河清を待つに等しい。
群れで生きる動物である人間は、本来的に他者に依存して生きていかざるを得ない。他者に自分への行為を要求せざるをえない。人間はこれを基本的に言語を使用した会話で行う。言語以外では仕草、身振り、非言語的発声等の伝達手段もあるが、中核は言語である。その要求の内容とその正当性を説明可能であることが、他者に自分への行為を要求する前提であり、基本である。自立した人間同士の関係とはこのような説明可能性、すなわち合理性を有する会話によって成立する。
しかし、社会には言語を身につける段階に達していない幼児~自立には至っていない、言語的未成熟な人間~がいる。彼らは、その要求を言語で説明することができず、その要求の実現を自分の特殊な立場を利用して図ることになる。泣き叫ぶ、言うことを聞かず抵抗する、ものを破壊する等々非言語的伝達手段を幼児は使用するが、要求が受け入れられる基本的パワーは、彼らが幼児であるという彼らの特殊な立場から生じている
特殊な立場を利用しての要求の実現、そう、まさに、幼児に見られる要求の実現の仕方にハラスメントというものの本質があるのだ。すなわち、言語的未成熟を背景とする「甘え」がハラスメントの本質なのだ。
性的優位性を利用して他者に自分への行為を要求するのがセクハラ、社会的地位の優位性を利用して他者に自分への行為を要求するのがパワハラである。
セクハラ、パワハラには単に相手を不快にさせることによって自分の精神的満足を得るという類のハラスメントも多くあるが、他者に我慢を要求するということであり、同じ構造のものと考えていいだろう。
なぜここで優位性が利用されるのか?人間関係を悪化させるリスクがあるにもかかわらず、なぜ他者に不快、反発、抵抗を引き起こす優位性が利用されるのか?
その答は幼児の例で明らかになる。言語能力不十分、言語能力未成熟である。要求の内容とその正当性を語る言語能力をハラスメント加害者は身につけていないのだ。
辞任した福田財務事務次官に御登場願おう。彼の要求の道徳性は問わないこととして、また要求実現の成否は別問題として、彼の要求の内容とその正当性を表現する言語というものは日本語文化のなかに厳然として存在する。我が国はその文化、その伝統を有し、その言語化を果たしている。しかし、エリート中のエリートたる地位を有するにもかかわらず、彼はその言語を駆使する「能力」がなかった。知的教養に偏向がありその方面の言語に暗かった、また自立した異性との言語生活に何らかの理由で未成熟であった。だから彼は「甘え」たのだ、「甘え」という道しかなかったのだ、幼児のように。
自立した人間が甘えるのは恥ずかしいことだ。その人間の幼児性を露呈するのがハラスメントだ。私は自立した人間ではないと公言する行為がハラスメントだ。優位性に依存するというのは強さを示すのではなく、人間的弱さを示すことなのだ。
要するに、こういった攻め口でハラスメントをする人間を批判することがハラスメント防止に効果があるはずだ、というのが私の言いたいことである。
そしてもう1つ、資質という意味では十分であったはずの福田次官の例に象徴されるように、言語能力の不十分という問題は個人個人の資質・能力によるというよりも、社会全体の問題としてあるということだ。日本社会全体が言語能力、会話能力を喪失しつつあるということだ。日本文化が痩せ細ってきているということだ。