2018年4月27日

 

 

 脚本演出が誰だか知らないが、あそこで大のオトナが泣くという必然性はまったくないはずだ。批判的精神のひとかけらもない大根役者は割り振られた田舎芝居を忠実にこなした。

 そして、どうやら日本中がこの事件を本気で受けとめているようなのだから始末に負えない。一億総劣化の象徴的事件だろう。その一億の1人として民族的恥辱を感じる。

 よく考えてほしい、彼は何ゆえにあそこで泣くのか?反省?よく考えてほしい。それは絶対にありえない。ヤツは何十男なんだ??ホテルに帰ってケッとベロを出しているのは明らかだ。アドバイスの弁護士に下手な芝居を誉められて、肩を抱き合っているだろう。

 役者側もひどいが観客側もひどい。そこに流れているのは極めて単純で安っぽい人間観だ。役者側も観客側も愚劣な人間観でお互いを考え、お互いを軽蔑し合っている。

 

 

 もはや劇作家は作劇の意欲を失うであろう。これだけひどいシナリオでも日本中が感極まってしまうとしたら、プロの技、プロの工夫努力にどれだけの意味があるのか?

 観客の質の限りない低下、たぶんそれは一億の幼児化なのであろう。ヒネリとか、アイロニーだとか、そこはかとない、しかし究極的な悲しみだとか、ニガイ喜びだとか、ワビ、サビだとか、人類的巨大な悲劇だとか、悪魔的喜劇だとか、そういうことがわからない幼児に対して芝居は書けない。筆を折る有能な作家の何人かが発生したであろう。日本にもはや文学の成立する土壌は失われているのだ。

 

 

 なるほど、現在の政治家はこのような国民の低級を十分に見極めているのだ。だから無理筋のせりふにも躊躇がないのだ。現場に踏み込まれても私はやっていませんと平気でウソをつけるのだ。ことの必然性を人々は問題としない。説明の論理性を問題としない。問題とする能力に欠けているからだ。最後に決めのポーズが決まっていれば、それでやんややんやの拍手なのだ。ゴメンがカッコウよければ、ゴメンですむので、ケイサツはいらないのだ。二度と起きないよう調査して万全の措置を講じたいと言い、二度目に起きたら一度目とまったく同じかどうか調査するなどと言うのだ。ものを考えるのが面倒な大衆は、媚薬を嗅がせておけばそれを許すと見越しているのだ。

 

 

 亡命を卑怯だと批判してきたが、亡命でもしなければ精神に危機が生じかねない。最悪の国民像を見せつけられるであろう東京オリンピックまでには亡命を考えなければなるまい。東京オリンピックを日本人とともにはしたくない。

 

 

 愚民化政策を展開しておきながら、生産性の向上などとよく言うよ。経済を知らない経済人の、知ったかぶりの浅知恵の社会的発言、その根っこにあるのも浅はかな人間観だ。愚民化政策をとって自ら愚民と化しているのだ。

 

 

 識者に申しあげておきたい。田舎芝居はやめろというセリフはもはや通用しない。そのセリフは田舎芝居を認識できる社会でしか通用しない。

 日本は経済もダメになったが、文化もダメになってしまった!!