2018年3月23日

 

 

 浅薄な人間観とは、例えば次のようなものをいう。

 「犯罪者は悪人である。」「嘘つきの言うことは信用できない。」「社会的地位の高い人は偉い。」「儲けた人は賢い。」

 このような単純な考え方が横行する社会は、洗練された社会とはいえない。文化的程度の低い社会ということができる。

 何故ならこれらの考え方は、一見もっともらしいが、実は観念的であって、ちっとも真実を見ていないからである。

 

 

 週刊誌なるものを先頭としてエンターテイメント的要素を強めているマスコミは、人々のこのような浅薄な人間観に依拠してニュースを報道している。

 現実の人間の複雑性に頭を巡らすことはエネルギーを要する。1日の労働に疲れた大衆は癒しを求め、エネルギーを使うことを忌避するからである。

 おばさんたちのいわゆる井戸端会議、おじさんたちのいわゆる床屋政談のたぐいもまた、エネルギーを費消するお互いの議論を避けるため、浅薄な人間観を基礎とした会話が展開されやすい場である。

 

 

 まさにエンターテイメントとして、一定程度は浅薄的人間観が許容されてもいいと思う。残念ながら大衆は日々の労働と精神的苦痛に疲弊しきっているからだ。

 しかし、社会の運営に責任のある知的エリート階層の人間観が、マジでこのような浅薄なものになってしまったとしたら、事態は深刻である。

 その社会は、野卑で、下品で、無教養で、文化程度の低い、すなわち非人間的で、非連帯的で、共感のない社会への転落の道を辿るほかないからである。

 

 

 最近、「文化」と名の付く組織を持つ文部科学省において、一部の自民党議員の圧力によるとはいえ、浅薄な人間観に立った行政指導が行われようとした。運良く、これに対して地方自治体の反発があり、文科省は赤っ恥をかくことになった。しかし、原因を作った自民党議員はまったく反省の色はなく、当然のことをしたまでと居直っている。

 

 

 自民党議員を馬鹿にして済む話ではない。今回の場合は自民党議員が世論の相場観を見誤った。しかし、彼らにとっての敵を攻撃するにあたり、大衆の浅薄な人間観を予想し、期待したという事実は重い。

 ファシズムは大衆の浅薄的人間観に依拠してその力を拡大するものなのだ。その萌芽がここにあったと見るべきだ。反ファシズム戦線は人々の人間観を豊かで洗練されたものとするところから構築されなければならない。