2018年3月7日
「後天性サヴァン症候群」は、大脳生理学的には前頭葉の部分的損傷とその補償的措置としての大脳の他の部分の発達、活発化ととらえられているようだ。
大脳の理知的働きをつかさどっている前頭葉の損傷によって、それまで前頭葉に抑圧されていた機能が開花するということは、アート、音楽に関しては何となく理解できる。理知では整序しがたい心の動き、生命感のほとばしりが、理知のコントロールの弱まりによって華々しく活動し始めるというのは、いかにもありそうなことだ。理知の弱化によって反理知のアート、音楽の能力が解放される図式だ。
ところが、アート、音楽に数学、記憶力の開花が並んでくると、疑問が生じてくる。数学、記憶力、これらはまさに理知的なものであって、反理知のアート、音楽とは異質のものと考えられるからだ。
どう考えたらいいのだろうか?
我々が考える理知には大きく性格の異なる2つの理知があるのではないか。1つは、分析し、分析結果に基づき論理的に積み上げていく理知であり、論理・積み上げ理知と名づけておこう。もう1つは、直観的に一挙に全体を把握する理知であり、全体直観理知と名づけておこう。。
アート、音楽は全体直観理知が機能する分野であり、数学もまた、入試数学ではない一つの知的世界を構築する数学は、全体直観理知が機能する分野といえるかもしれない。また記憶も、例えば囲碁将棋の世界での記憶のたぐいを想起すれば、全体直観理知が機能する分野といえるような気がする。
アルファベットをA、B、Cと1つずつ把握して全体が26文字からなると認識するに至るのが論理・積み上げ理知、アルファベット全体を一挙に把握し、26文字からなるとは敢えて認識しないが、CとEの間にはDがあるはずだと認識できるのが全体直観理知だ。
古代中国の賢人には音楽の素養が必須であった。それは当時、音楽を全体直観理知として賢人の重要な要素と考えていたからにちがいない。
現代数学の最先端では、個人という要素が結論に影響するようになっているらしい。数学に論理・積み上げ理知でない世界が広がっているということだろう。
空海の超スーパー暗記術という虚空蔵求聞持法も全体直観理知の世界の暗記術であろう。
このように考えれば、「後天性サヴァン症候群」で開花する能力には共通性があると言えることになる。
前頭葉の損傷の結果として開花するのは全体直観理知なのだ。全体直観理知は前頭葉の働きによって抑圧されており、その働きが鈍くなると解放されて活発化するのだ。
近代西洋思想の論理・積み上げ理知の偏重、東洋思想における全体直観理知の重視、修行とは前頭葉の働きを抑止することができるようにすること、とまで言ってしまうと連想もやや我田引水ということになってしまうか。