2018年3月6日

 

 

 しばらく前になるが、NHKの「ETV特集」で「Reborn~再生を描く」が放送された。

 40代の日本人男性(オーストラリア、アボリジニーの楽器・ディジュリデュー奏者)が交通事故に遭った直後、突然それまでになかった絵画の才能が開花し、絵を描きたいという意欲が高まり、ほとんど四六時中絵画を描くようになったという話であり、また自分は狂ったのではないかという自己喪失感に苛まれ、苦悩し、最終的には自己回復に至るという話でもあった。

 表題の「後天性サヴァン症候群」はその男性が診断された病名であり、外傷性脳障害により、深刻な記憶喪失、認知力低下、感情鈍麻、言語障害に陥る一方で、突然アート、音楽、数学、記憶にすぐれた能力を開花させるという「症状」を呈する精神性の「病気」である。「症状」「病気」という言葉を使うのはためらわれるのであるが、普通の日常を送ることができるようになるまでの間、治療の対象になるという意味においてそのような言葉が使われているのである。

 放送ではほかに、事故後突然音楽の才能が開花し、ピアノを弾きだして作曲家にまでなった男性、事故後突然数学の才能が開花し、図形を描き出し、大学の数学科に入り直して数学を続けている男性が登場した。いずれもそれまでは音楽にも数学にも全く縁がなかった人である。

 

 

 さて、この番組から次のような考えが生まれてくる。

 「後天性サヴァン症候群」では社会的に肯定的に評価される能力を開花させた人たちだけがその症候群とされている。しかし、「社会的に肯定的に評価される能力」というのは時代、社会によって変動しうるものであり、そのような客観性のない特殊文化的なものを病気の指標とすることはおかしい。社会的に肯定的には評価されない性質、面が外傷性脳障害により強化される、獲得されるということはあるのではないか。そして、それが社会的に否定されるものである場合であっても、肯定的に評価される「後天性サヴァン症候群」の者と同じ「症状」であり、その「症状」になったのは自己の選択、自己の責任ではないにもかかわらず、犯罪者等として社会から排除されるようになっているのではないか。そうだとすればそれは正当なことではないだろう。

 「後天的サヴァン症候群」はより一般化して定義し直すことが適当だろう。すなわちその定義とは、外傷性脳障害により、深刻な記憶喪失、認知力低下、感情鈍麻、言語障害に陥る一方で、他の特別な性質、面が強まり、その結果自己同一性に確信が持てず、不安に苛まれ、日常生活に支障を生じる障害である。

 

 

 「後天的サヴァン症候群」がこのように定義され直したとすると、次に原因となる「外傷性脳障害」が問題となる。「外傷性脳障害」は交通事故、他者による暴力等々突然性を前提としている。しかし、突然性によらなくても、深刻な記憶喪失、認知力低下、感情鈍麻、言語喪失は発生し、その結果自己同一性不安の障害に陥っている人々が数多くいる。当世問題となっている「認知症」がまさにそれである。そして「認知症」は失うものばかりではなく、決して肯定的に評価されるものではないかもしれないが、何らかの「強化」「獲得」があるのではないかと推定される。あるとすれば、「認知症」は「後天性サヴァン症候群」と病として等価ではないか。

 

 

 「後天的サヴァン症候群」では、その獲得能力が肯定的なものであることを契機として自己同一性の不安から立ち直れる、すなわち「Reborn~再生」が可能となる。そうであれば、同様に「認知症」においても、肯定的な獲得能力などというこだわりから自由でいることができれば、「Reborn~再生」は可能と言えることになる。

 自己という曖昧、不確かなものを支えとする考えを捨てれば、こだわりをなくせば、「Reborn~再生」はいくらでも可能であり、「Reborn~再生」は日常的なものとなり、そしてそもそも自己にこだわりがあるから生まれる「Reborn~再生」などということは問題にならなくなるであろう。 (続く)