2018年2月10日

 

 歌:だいすけおにいさん、作詞:のぶみさん(絵本作家らしい)(作曲者はどうやら不明のようだ)の「あたし おかあさんだから」が炎上し、だいすけおにいさん、のぶみさんのお詫びといった事態になっているらしい。

 いったいこの歌のどこに問題があるのか、炎上の一方で疑問の声も広がっている。表現の自由への一般の人々からの攻撃というむずかしい問題をはらんでいるとも考えられる。考えてみた。(歌詞は検索して探してください。)そして、1日考えて、考えが180度転換した。

 

 

 子育てのための自己犠牲、自己犠牲を余儀なくされている自分の肯定、肯定できる自分を見出し得たことへのこどもへの感謝、詩的言語を使わなければこの詩の内容はこのようなことから成っている。

 母親としての喜びの詩であって、現代性の取り入れもある。なかなか面白い詩ではないか、いいところを見ているのではないか、どこに問題があるのだ、批判者は母性礼賛を批判する観念的フェミニストではないか、市民自らが言論弾圧をするのは問題ではないか、だいすけおにいさん、のぶみさんのお詫びは不要であり、過剰反応ではないか。詩を読んだ直後の考えはこのようなものであった。

 

 

 しかし、批判にはどうも厚みがある。批判者は観念的フェミニストという仮説では説明がつかない根深さが感じられる。母性礼賛は世に満ち満ちており、この歌だけが観念的フェミニストのターゲットになるというのもおかしい。母親たちが批判しているようである。このようなことから現時点ではこのように考えるようになった。

 

 

 この歌は、現実の母親たちの心の葛藤を無視し、極めて安易に子育てのための母親の自己犠牲をめでたし、めでたしと歌ってしまっている。すなわち、母親たちは子育てに喜びを感じつつも、それによって失われた自分、失われた自分の可能性への残念無念を解消できない迷い、苦しみの中にいる。その事実を知らないでよくもやすやすとそれでいいのだと歌ってくれたわね。母親たちは子育てに喜びを感じている、それでいいのだ、失われた自分、本来の自分、それを探しにフラフラされたらたまったもんじゃない、そんな男に都合のいい解釈が歌われているだけじゃないの。(だいすけおにいさんは当然として、作詞ののぶみさんもどうやら男性らしい。)日常からの解放がエンターテイメントのはずなのに、楽しむべき時間に日常の迷い苦しみを、しかも阿呆臭いかたちでつきつけられてはたまったもんじゃないわ。だいすけおにいさん、あなたなんにもわかっていないのね。こういう反発が炎上を呼んだと思われるのだ。こうなれば、だいすけおにいさん、のぶみさんのお詫びというのもやむを得ざるものと考えられるようになる。

 この歌はあまりにもリアリティのど真ん中に突っ込んでしまった。単なる母性礼賛ならばかくも厳しく批判を受けることはなかっただろう。悩める人にとって能天気ほど頭に来るものはない。この歌はそれだったのだ。