2017年7月9日
「敵」の目的を、思考実験として仮に認めることとすると、その目的のための手段がいかに理不尽で非人間的なものだとしても、そこに合理性の流れが一貫して存在することに気づく。
このことの典型例を提供してくれているのは、我らが金正恩君だ。金王朝の存続維持という目的をいったん是認すれば、彼が行っている外交防衛戦略、また極悪非道な内政も、少なくとも現在のところまでは、結果的合理性を有していると言わざるを得ない。
そして、金正恩君のおかげで、我々が真に、究極的に戦わなければならない「敵」は何かということを我々は知ることができる。そして、その「敵」は北朝鮮のみならず、我々の住む日本にも、我々の日常にも、そして我々自身の心の中にも存在するということに思い至ることができる。
合理性とは目的があって初めて成立する概念である。目的なき合理性の例を上げよという設問に答えることは絶対不可能である。
したがって、ある目的が正当であることを(合理的に)説明せよという設問に答えることも絶対不可能である。説明手段たる合理性が何らかの目的を前提にしているからである。目的の上位にある目的に言及せざるを得ず、最終的にはその先なしの断崖絶壁に佇(たたず)むことになる。
したがって、現実に存在し、人々に共有されていると見える目的の正当性は、それを究極的に支える根拠をもたない。単に共有されて存在しているというにすぎない。(ここでそこまで飛躍する必要はないのだが、ヒューマニズムもまたその宿命を逃れられない。)
人間存在の実質は、このような限界のある目的、そのための手段に過ぎない合理性、これらを遥かに超えている。人間存在は、目的とか合理性とかいう限界あるチャチなものに縛られることを潔しとしない。人間存在のその要素を敢えて形容すれば、私は「神聖」という言葉を使いたい。人間存在の「神聖」性は、目的と合理性だけで充満している社会を許容しない。所詮「……なりの合理性」でしかないものの前に何で跪(ひざまず)くことができようか!
さて、話を落とす。
安倍政権は秒読みの段階を迎えた。ついにキーとなる経済界からもイエローカード、あるいはレッドカードが掲げられるようになった。「国民統治」という目的を実現し得ない政権という最終的判断が下されつつあるのだ。現実的には、自民党が単独でピンチヒッターを出すのか、自民、民進、維新、小池新党のお友達に公明も加わった政界再編となるのか、といったところであろう。
そこで我々が注意しなければならないのは、しばらく政局はかなりの面白さを示すであろうが、そしてどうなるのが好ましいというそれぞれの判断はあるであろうが、出来上がる新政権もまた、「国民統治」という目的、「国民統治」というスタンスをもつ政権であり、その観点からの勤務評定を経済界から受けざるをえず、経済界の評価に左右される政権であるということである。
人間存在の実質という観点からすれば、問題にしようもない、コップの中の嵐の現象でしかない。その本質を忘れて興奮を示すのは大人の振る舞いではないと思う。
「……なりの合理性」が人間存在の実質を脅(おびや)かす、我々の宿命的、根幹的な「敵」だ。その「敵」に翻弄される社会、そして自分自身と闘うこと、それが我々の本来なすべき仕事である。
敢えて再言、強調すれば、「……なりの合理性」の支配を受けて道を誤っているのは我々自身であり、そこからの闘いがないかぎり他の「敵」との闘いでの勝利は覚束ない。戦端の火蓋はそこから切られなければならない。