2017年4月19日
安倍内閣は教育勅語を憲法や教育基本法に反しない形で教材として使うことを認める答弁書を閣議決定した。松野文科大臣は道徳の教材として使うことを否定せず、義家副大臣は朝礼での朗読を教育基本法に反しない限り問題ないと言っている。稲田防衛大臣も教育勅語についての肯定的発言を繰り返している。
あいた口がふさがらない。安倍首相は世界の諸国を区別するに際し、価値観を共有している云々というような言い方をする。その言葉を借りれば、教育勅語に肯定的態度をとる安倍首相及びその周辺は筆者と価値観を共有していないと考えざるを得ない。価値観を共有していないという判断が間違っているとすれば、その唯一の場合は、安倍首相及びその周辺が我が国の歴史及びそれを踏まえて獲得された価値観についてまったく無知である場合である。価値観の非共有、無知、いずれにしても教育勅語を正しく評価できないということは、民主主義国日本のリーダーたる資格が欠けているということであり、そのような人物をリーダーとしている我が国は深刻な事態に直面していることとなる。
教育勅語の根本的問題は、そこに書かれているひとつひとつの徳目にあるのではない。教育勅語の根本的問題は、それが「勅語」、天皇が発した言葉という体裁をとっているところにある。
公的な権力、あるいは公的な権威が、その力を背景に道徳に介入することは禁じられなければならない。これが戦前日本に対する我が国の反省である。憲法第19条の「思想及び良心の自由」は、単に国民の自由を規定するのみではなく、公的な権力、あるいは公的な権威は人々の思想及び良心に介入してはならないということをその実質的な内容としているのである。
したがって、天皇の権威を背景とする教育勅語はそれ自体の根本的性格が憲法に違反し、教育基本法に違反しているのであって、それらに「反しない形で」「反しない限り」などという条件付けは、そもそもあり得ない条件づけであり、言語矛盾なのである。
「忠君愛国」「滅私奉公」、それはひとつの思想としてありうるものではある。それを私人が語ることは許容される。籠池君がいくら語ってもそれを禁止することはできない。しかし、「勅語」として、あるいは首相夫妻の後押しによって語られてはならないのである。
民主主義国の価値観、基本的価値観がここにある。
毛沢東語録、金日成語録、筆者は読んだことはないが、おそらくそれらにも革命精神鼓舞の内容とともに一般的な道徳的内容も含まれているであろう。その道徳的部分をもって教材として使用することを安倍首相及びその周辺が認めることがありうるのであろうか?そんなことはまったく考えられない。道徳的に奨励されるべき内容があるから教育勅語はけっこうなものなどという教育勅語の擁護の論理は破綻しているのだ。教育勅語を肯定する基本的スタンスが先にあって、後から世間に許容されるだろう理屈をひねり出すから、このような論理破綻が生じるのである。胸の内をさらけ出すことなく、後付けの理屈で非民主主義的志向にしかるべき位置を確保しようとする、このようなやり方を「国民欺瞞」という。各種政策の問題以前の問題として安倍政権はこの「国民欺瞞」をためらわないという性格を抱えている。