2017年3月12日

 

 

 悪魔トランプの登場によってアメリカの法治主義に疑念が生じつつあるとき、お隣韓国の法治主義にも疑念が生じてきた。

 朴大統領は憲法裁判所によって違憲・違法行為ありと判断されて罷免となったわけだが、その違憲・違法行為とは具体的に何なのか、報道されるかぎりにおいて指摘されている事実は、日本においてはどう考えても違憲・違法とされるような行為とは思えない。

 すなわち、朴大統領は友人チェ・スンシルに機密を漏えいしたとされているが、外交、防衛の世界でイメージされるような性格のものではなく、演説草稿その他について事前に意見を求めたということでしかないようだ。相談を受ける立場にいれば事前に何かを必然的に知り得ることになるが、その先、すなわち相談を受けた内容を外に漏らしたり、それによって個人的利益を得るようなことがないのであれば、相談することを機密漏えいということはできまい。相談された者に秘密保持義務が生じるということにとどまるはずだ。

 また、特定のスポーツ・文化の団体を支援するように指示したとか、協力を要請したとかされているが、そんなことは日本では当たり前に行われていることであり、それによって政治家側が利益を得れば収賄罪ではあるが、韓国の場合、収賄ゆえに非難されているのではなく、支援・協力要請それ自体が権力乱用でダメだとされているようなのだ。

 何よりおかしいのは、違憲・違法という言葉はあるが、違憲だとすればそれは憲法の第何条に違反しているのか、違法だとすればそれは何法違反なのか、憲法裁判所の決定にまったくそれが出てこないのだ。

 

 

 韓国・北朝鮮の専門家・慶応大名誉教授の小此木政夫さんはこのことの気づいており、11日(土)の朝日新聞朝刊「耕論」において次のように語っている。

「 日本の政治を基準にすれば、知人の国政介入などは朴槿恵氏の弾劾には値しないのではないか、と多くの日本人は思うかもしれません。しかし、刑事上の責任が問われたわけではなく、これだけ大きな混乱を招いたことが問題になったのであり、その政治的な決着を憲法裁判所がつけたのです。政治は国によって違う。それぞれの国の政治的伝統や文化を知らなければ誤解が起きます。」

 そしてその後に、韓国政治を動かす要素として2つがあり、議会、政党で構成される「制度圏」と政治運動を展開する民間による「運動圏」という概念をあげて韓国政治を語っておられる。

 韓国政治の実態がそうであるというのは、それはそれで有益な示唆であることは認めなければならない。しかし、そのことは、裏を返せば、韓国は法治主義ではない側面があるということを言葉を換えて言っているということでもあると考えられる。

 

 

 同じ「耕論」で劇作家の平田オリザさんは今回の韓国の事態について「(罷免をもたらしたのは)糾弾してきた市民の力です。不正を働いた指導者を自らの手でやめさせた、という点で、正直、うらやましくも思います」「強いバイタリティを感じました」「変革に対する市民の意気込みに触れ、まだまだ若く活力のある国だと感じました」「閉塞感や抑圧に対する怒りが、大統領の疑惑を契機に一気に噴き出し、罷免という劇的な結果をもたらしたように思います」というような肯定的評価を下しており、そこに法治主義の軽視があることへの問題意識はまったく見られない。

 

 

 法治主義が庶民のエネルギーの発現を抑制するという面があることは事実だが、現在我々が直面している危機は、むしろ権力側が法治主義の原則を破っている、あるいは破りかねないというところにあり(例えば新安保法制、「共謀罪」法案の説明振り)、法治主義無視の力の源泉を権力側が大衆に求めるという傾向もある。そして、権力による法治主義の放棄、とりわけ大衆を動員してのそれは、国民にとって極めて恐ろしい結果をもたらす。法に反したことを裁判手続きによって罰せられるのではなく、反権力であることを反秩序と断じられて大衆の興奮をバックに市民が罰せられるという社会になってしまうおそれがあるのである。

 法治主義とは、流行りの言葉を使えば、印象操作だけでは人を罰しないということであり、社会の安定装置として本質的重要性を有する原則である。

 朴大統領罷免について、韓国政治の現実は現実と認めつつも、自分たちの問題として考える際には、平田オリザ的ではない、冷静な判断を要する