2016年10月6日
障害者施設襲撃事件の犯人・植松聖の差別的「ヒューマニズム」、優生思想を生んだ「ヒューマニズム」、その元凶はギリシャの哲学者アリストテレスだった。アリストテレスはソクラテス、プラトンに続く大哲学者とされているが、アリストテレスは前の二人とは大いに違う方向に人間観の舵を切ったようだ。
その方向転換とは、人間はダメで不完全な存在で、真理には決して到達し得ず、ゆえに永遠に悩み苦しまなければならないという否定的人間観(ギリシャ悲劇の基調)から、人間は理性を持つがゆえに神に準ずる存在であり、自立的に神に近づいていくことができるという自己確信的人間観への方向転換である。
このアリストテレスの方向転換が、ヨーロッパ中世での中断・アラブ世界での継続の後、ルネッサンスという復活を遂げ、近代科学技術を開花させるとともに、キリスト教プロテスタンティズムを誕生させた。すなわち、近代資本主義の基礎をも形成した。そして同時に、理性なき人間は人間にあらずという優生思想も生んだのである。(何といっても16~17世紀にかけて約900万人の犠牲者を出した魔女裁判がその象徴である。参照:752号)
以上の考え方は、その道にまったく疎(うと)い筆者の仮説である。言うまでもなく専門の研究者の検討にゆだねなければならない。仮説に至った経緯は次のようなものであった。
筆者は、植松聖の差別的「ヒューマニズム」の原点探索のため、関連しそうな書名を探していて「ヒューマニズムの悲劇」(H.ワインシュトック著、樫山欽四郎、小西邦雄訳。創文社)を見つけた。それを読んでいて文末【参考】に掲げる文章に遭遇し、そこからアリストテレスが差別的「ヒューマニズム」の元凶ではないかという思いに至ったのである。
取り調べに対し差別的な発言を繰り返し、反省の姿勢をいささかも見せないという植松聖に対して、「許しがたい」「非常識」「差別的」「非人間的」等々の非難は有効ではない。なぜなら、彼にとってあの行動は、ある種の「ヒューマニズム」によるものであり、非難は承知の上、計算の上のことに過ぎないからである。したがって、世の中に蔓延している植松聖的優生思想に対しては、その思想の基礎にある人間観の問題から根本的に批判していかなければ、すなわちアリストテレスへの批判から出発しなければ、有効な打撃とはならない、根こそぎに息の根を止めることはできない、と考えなければならないのである。
何よりもまずは筆者の仮説に対する研究者の見解を知りたい。またアリストテレスの思想の功罪に関する分析の現状を知りたい。必ずやそこに優生思想批判の展望の光を見出せるであろう。文末【参考】の文章にもアリストテレス批判の一端が現われているのである。
しかしながら、そこに至ってもまだ道半ばである。基本的人権思想のよって来たるところは何処か?よって来るべきところは何処か?この問題は引き続き解かれぬまま残っている。しかし、その答はアリストテレス批判と密接な関連を有するにちがいない。
【参考】「ヒューマニズムの悲劇 第一部第三章 136頁から139頁(抜粋)」
「アリストテレスは西洋で最初の、そして聞きのがすことのできない健全な人間悟性(筆者注:理性と同義と読んでいいだろう)の声である。中庸を一貫して讃えたのも、そこから由来する。………
………………このようにもっともで、経験によりくりかえし確かめられる教説に対し、誰が抗議の言葉をはさむことができるだろうか。そうは言っても抗議できないのは、ただこの健全な悟性が、なるほど平穏な時代の秩序ある関係とは、全くうまく折り合ってゆけるのだが、自由の深淵が現われるやいなや、無力になってしまうこと、そうでなくとも、この悟性が自信にみちたその歩みをつづけるうちに、時折、自らこの深淵にはまってしまうこと、これらのことを同じ経験が教えてもくれない限りのことである。そのうえ、この悟性は精神の冒険について少しも知ろうとしないから、前代未聞のことがらに対しては無能である。………
人間の深淵をアリストテレスは決して覗くことがなかった。………
………………
………………
………神々の王座も消える。そのかわりにここでは、理性のおだやかな光のもとで、よくならされた平原が広がる。この光の源は「思惟の思惟」つまり哲学者の神である。この神の支配に今日にいたるまで哲学的な基礎を与えたのは、アリストテレスの力強い業績である。
しかし倫理的理性の狂信者シラーに言わせるならば、こうして思惟の自由の前では、ただ単に神の権威が消失しただけではなく、畏れという現象もまた消え、永遠の深淵はふさがれてしまったのである。神は世界の王座から降り、哲学者の神としてその天幕を人間的理性のなかに張りめぐらす。………しかし理性を神の王座にすえるものは、あの悲劇的意識の誠実をもはや理解できない。だがこれこそせまりくる幻惑から自分を守るために、自分が盲目であることを絶えず心に刻みつけてくれるものなのに。
だから、個個人がその人柄でもっとも美しい秩序、神的秩序に加わるには、ただ理性的であれば良いのであるが、………エリニュス(筆者注:ギリシャ神話の復讐の女神たち)が眠りながら待伏せする洞穴がポリスのものであることや、人間の世界であるポリスそのものが薄ぐらい洞穴であり、そこから人々は陽の光に向かって何度もとび出すことになるが、その暗やみへイデアの光をすこしでも持ち運ぶために、再びそのなかへくり返しとって返さねばならないということなどは、アリストテレスにすれば、わけのわからぬ夢想にすぎない。
………………
………………
………………「われわれの人生が本性上不幸で困難なものだとしても、このような力(神的理性)にかかわる能力をもっているから、良くつくられており、そのため実際、人間は、他の生物と比較するならば、ひとつの神であるように思われる」(V.ローゼ編「アリストテレス断片集」)。人間は理性に支配を得させるときにだけ、自ら運命の主となり自由となるという、後のストアの確信の基礎はすでにここに置かれていた。いずれにせよ、秩序を与え、それを保持する力でありながら、同時に破壊し、絶滅する力であるという、理性のきわめて危険な二義性に関しては、アリストテレスはもはやなんら知るところがないのである。」