2016年9月23日

 

 LGBTへの差別的取扱いの廃止等の措置がいくつかの地方自治体で先進的に講じられ、肯定的ニュースとして取り上げられている。平等という観点からLGBTへの寛容の広がりは誠に結構なことと筆者は評価している。

 しかしながら、LGBTへの寛容とはいっても、それを認める考え方に大きな断層が横たわっていることをメディアは完全に無視している。そのことを指摘せざるを得ない。

 大きな断層の放置、その問題からの逃避は、LGBTに対して寛容をもたらすことまではできても、本当の差別をなくすことには至れない。

 

 

 その断層の存在は、ひとつの質問をしてみれば、答が分かれるので、すぐにわかる。その質問とは、「LBGTを普通と思いますか?普通でないと思いますか?」という質問である。

 「普通のこと」と答える人々がいる一方、驚くほど多くの人が「普通ではない。」と答えるのである。「普通ではない」という意味が「「少数である」という意味にとどまっているのならば問題はないが、「普通ではない」の意味には「正常ではない、異常である」という意味が含まれているのが実態である。そして、異常ではあるが不運にもそのような状態となっている人に対する同情として、憐れみとして、LGBTに寛容であるべきと考えられているのである。

 言わば、その寛容は、正常な人から異常な人への恩恵、健常者から障害者への恩恵としての寛容なのである。

 寛容がそのようなものであるかぎり、そこには劣等、欠陥、不完全に対する優越という差別意識が潜在していることが認められる。そこには真の平等がない。

 差別する側はそれを感じないであろうが、差別される側は敏感にそれを感じとるであろう。制度を仕組もうとするとき、真の平等ではないという潜在している問題が絶えず頭をもたげてくることになろう。

 

 

 このような状態は、ヒューマニズムの基礎となるべき哲学の不十分性によるものである。植松聖事件でも露呈してきた問題がここにも現われている。