2016年9月18日
16日福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長)が出した米軍普天間飛行場の辺野古移転に関して国が沖縄県を訴えた訴訟(一度なされた県知事(仲井真知事)の埋立て承認の取消し(翁長知事)は違法であり、取消しを是正(取消しの取消し)するように求める訴え)に対する判決は、司法にゆだねられた権限の範囲を明らかに逸脱したものである。このような判決が高裁レベルでなされたことについて、司法において、また法曹界一般において、最も基本的な法的枠組みを遵守する精神が弛緩し、大勢順応的、権力追随的雰囲気が蔓延していることの一つの現れなのではないかと懸念される。
言うまでもなく国と沖縄県との対立の基本は、普天間飛行場の移転先として辺野古以外の選択が考えられるか、考えられないか、というところにある。この基本的対立は極めて政治的なものであって、技術的な検討の結果で結論が得られるものでもないし、法的な検討の結果で結論が出るものでもない。まさに政治的解決にゆだねられるほかに解決の方法はないのであって、すなわち最終的に我が国民主主義制度のルールの中で解決されるほかはないものである。(そのルールについて見直しの余地があることはここでは措いておく。)いずれかの分野の専門家が判断できるものではなく、また専門家を集めた審議会的組織で判断できるものでもない。したがって、当然のことながら、裁判所において判断されるべきことではないのである。
しかしながら、この基本的な対立について、裁判官は法律の専門家であって外交、軍事、政治の専門家ではないにもかかわらず、かつそのことについての審理がほとんどなされていないにもかかわらず、「ノドンの射程外になるのは我が国では沖縄だけ」とか「沖縄から海兵隊の航空基地を移設すれば海兵隊の機動力、即応力が失われる」などという、およそ専門外の借り物の理屈を恥ずかしげもなく展開し、「辺野古への移転しかない」、「県全体としての基地負担が軽減される」、「翁長知事の取消し処分は日米関係の信頼を破壊する」、「移転が民意に反するとは言えない」などと判決で断じているのである。
今回裁判で争われるべきは、行政処分(埋立ての許認可)の主体(沖縄県)の内部に事情変化(選挙による知事の交代)があったのみで、行政処分の当否を判断する客観的条件には変化が見られない場合、前処分(埋立ての承認)とは異なる判断をするということが、行政処分の安定性という観点から許されるか否かという問題であった。そのことについて判決は触れている。また国から是正措置の指示があった場合の県の応諾義務についても触れている。内容についての妥当性は措いておくとして、その部分は明らかに法的問題であって判決で取り扱うことが極めて妥当な分野である。
判決はこの部分に限られるべきであった。判決がこの分野に限られているのであれば、内容の妥当性は措いておいて、司法は司法に期待される役割に応えていることになる。
それ以上の問題に言及したのが今回の判決である。それは司法判断にまったく期待されていないことであった。(勝訴した国は何も言わないであろうが、きっとびっくりしているにちがいない。)
この逸脱が意図的であったとすれば、それは国が取り組んでいる国民世論の形成に司法が手を貸したことになり、司法の自殺行為である。意図的でなかったとすれば、それは司法の果たすべき役割についての無理解、誤認であり、高裁判事にそのような人物を配置した裁判所の深刻な人事問題である。
沖縄県は最高裁に上告した。最高裁での司法の独立性を維持する、適切な判断を期待したい。