2016年9月15日

 

 

 人の役に立つこと、これはいいことだ、これを否定する人はまずいないだろう。しかし、これを逆読みして、人の役に立たないことはよくないことだとしてしまうと問題は簡単ではなくなる。この考え方は、役に立たない人を差別する根拠となる。役に立とうと立つまいと人は人として尊重されなければならないというのが我々の社会の基本原理であり、基本的人権は人の役に立っている人にも人の役に立っていない人にも適用される大原則である。

 

 

 しかしながら、ほとんどの人は、子供のときから後期高齢者に至るまで、人の役に立たなければならないという心理的圧迫のもとで生きることを強いられている。そして人並みの生活を送るだけの経済力を持てないということが、人の役に立っていないことの標章とされている。「働かざる者食うべからず」、その逆読みの「食えない者は働いていない(役に立っていない)」「食える者は役に立っている」という3つのメッセージが我々の社会のイデオロギーなのだ。貧困者にその運命を納得させるための理屈としてこのイデオロギーが使われ、社会のムチとして機能している。そのことに打ちのめされ、プライドを捨てさせられ、自己否定の感情にさいなまれて多くの人々が貧困状態で生活している。社会の貧困化とはそういう人々が社会の大半を占めるようになっていくということだ。

 

 

 この我々の社会のイデオロギーとは、資本主義的イデオロギーであって、それが我々の社会の人間評価の基準となっている。客観的にはその人間評価の基準は資本主義的イデオロギーであって、特殊歴史的な人間評価の基準に過ぎないこと、イデオロギーは社会運営上の必要から生み出されたものであって真理とは違うものであること、これらのことを残念ながら多くの人々が気づくことはない。あらゆるメディアが総動員されることによって、多くの人々がその基準を自己評価の基準とすることを日々強いられ、その基準を内部化、骨肉化するに至っている。自分の恵まれない運命をやむをえないものとして、理由のあるものとして、役に立たない自己という否定的了解に達している。社会は尊厳ある自己という認識の断念の墓場化している。そのような自己否定的了解の普遍化、断念の墓場の広がりを資本主義社会では社会の安定とするのである。

 そして、人々は極めて自然に他の人々にもその自己評価基準を適用する。自分へのムチを他人へのムチとしても使ってしまうのである。弱者は弱者に対して厳しい態度をとってしまう。無理に何とか自分を説得し、納得したこと、諦めたこと、捨てたこと、これは他者も受け容れてしかるべきであると考えてしまうのである。そしてその基準で自分と他者を序列化してしまうのである。より役に立っている、より役に立っていないという序列化である。これが我々の社会のイデオロギーが生み出した悲しき現実である。

 

 

 この悲しき現実が克服されなければ、障害者差別を生む根っこを断つことはできない。

 我々の社会は資本主義社会と簡単にいわれるが、それは正しくない。全面的に資本主義社会であるわけではない。いちいち上げることはしないが、非資本主義的要素に満ち満ちている。そして、基本的人権思想は非資本主義的要素の象徴中の象徴である。

 そのことの強い自覚なしに資本主義イデオロギーの跋扈を許すとき、非資本主義的要素を社会の異分子としての評価しかできない思考傾向に陥ってしまったとき、障害者差別の根っこが社会全体にはびこってしまうことになる。

 

 

「見苦しくない生活(を送っているかどうかで人々を判定する)の基準は、差別的な比較の原理の精密となったものであり、したがってそれは、つねにあらゆる非差別的な努力を阻止し、利己的な態度を教えこむような作用をいとなむ。」(ヴェブレン「有閑階級の理論」第13章「非差別的関心の残存」岩波文庫P336)(  )内は筆者の補筆。

 

 

 ひるがえって、しからば基本的人権のよってきたることころはどこか?それを単に社会契約とすることはできない。基本的人権の適用範囲の画定を憐憫の情によるとすることはできない。社会契約の基礎となる、適用範囲を確定させる実態的理由があるはずだ。この問題に筆者は十分な納得を得るに至っていない。未解明の問題である。