2016年9月14日
以下は、日本の三流国化を懸念する良心的ジャーナリストの講演に対する筆者の「仮想」意見表明です。講演はまだ実施されていないので「仮想」ということになります。
先生の上げられた問題がいずれも問題であり、対処を要するという指摘に異議があるわけではありません。いずれの問題も国家レベルの問題であり、ないがしろにするわけにはいかないでしょう。
そこに日本の知性が動員されることも結構なことであり、先生ご出身の、そして私の出身でもあるA校の頭脳がそこで大きな役割を果たすよう呼びかけることも誠に結構なことです。
しかし、そのようなレベルの問題、すなわち社会の問題、国家の問題であると一般に認識されるレベルの問題とは別のところにある、次元の違う、一般人では感知できないような問題を、ひとり感知し、ひとりその問題と格闘していこうという人材を有していたところにA校の良さがあると私は考えています。集団から、社会から、国家から遠く離れて、孤高の存在であり続け、個人的問題であるようであって、実は全人類的問題であるような問題にチャレンジしていくという精神的態度をもった生徒が、A校では一般の生徒の身近に日常的にいたということがA校のすごさだったと思います。
そのような存在の語っていたことに一般の生徒がついて行くことができたわけではありませんが、そのような存在があるということを知っていることが、そしてそのような存在に価値を感じる精神がA校にあったことが、A校に謙虚、寛容、リベラルの雰囲気をもたらせていたのだと思います。
国単位でものを考えてしまう傾向が不可避的に生み出してしまう「深み」の不足、それこそ三流国の三流国らしさなのですが、そしてその傾向があらゆるチャンネルを通じて助長されているのですが、そこをカバーする知性こそA校らしさのある知性なのではないでしょうか。
私の語りもいつのまにか国家単位のものの考え方になってしまっているようです。経済力、政治力、軍事力といった面で日本がこれから大きなパワーをもつ国になるとは到底考えられません。それにもかかわらずパワーを追求しようとすることは、客観的に言って虚しいことでしかありません。世界の中での順位で自分の国を評価するような愚かな発想は捨て、独自に問題と考えることに独自に専念していくこと、それが結果的には全人類への貢献となること、そのような道を目指すのがこれからの日本にふさわしい道だと考えられます。