2016年8月23日
リオ五輪という大舞台で多くの若者が栄光を手にし、それを祝福する祭典が日本中で展開された。熱狂、興奮の祭典だっただけに、お開きにして日常に戻らざるを得ない人々に寂しさが漂う。季節もまた秋を迎えつつある。
栄光とは一過性のものにすぎないとはいえ、満場一致の自己肯定であり、それを手にした若者たちは、おそらく一生その自己肯定感のもとで、たとえ社会的には忘れられてしまうことがあったとしても、その記憶によって、生きていくことができるであろう。
一方、その若者たちを祝福した観客サイドの人々は、若者たちが獲得した栄光に憧れ、嫉妬し、満場一致の程度には到底及ばないものの、我が身で設定する小さな集団で得られ得る栄光を求めて、もはや栄光という名では呼ぶことが相応しくない小さな栄光を求めて、職場に家庭に街の中に散っていくことになる。
それで果たしていいのだろうか?それはインポッシブルを追いかけさせるだけの虚しいことではないのか?栄光を生みだす安っぽいドラマに追随するだけのことではないか?そこに人間の向上、社会の発展はないのではないか?
むしろ、栄光などはない、栄光を生むドラマなどは陳腐だとして否定し、栄光を断念すること、栄光を放棄すること、そこから出発して、なおかつ生きていくこと、それが必要なのではないか?そこに最後に残る自己肯定を見出すこと、そこにこそリアルな現代の課題があるのではないか?
そんなアプローチがなければ、待っているのは、かつてのローマ帝国の滅亡、絶対主義王政の崩壊のごとき、繁栄のあとの虚無だけなのではないか?
などと、台風が過ぎて、わずかに涼風があって、虫の声が聞こえてくる深夜に思う。