2016年8月14日
瘴気、すなわち自然発生する毒ガスのことだ。ヒューマニズムにはそれがある。植松聖はそれにやられた。
ヒューマニズムということばは現在、人道主義、すなわち人間を分け隔てなく人間として大切に扱うという道徳的な意味で使われている。したがって、ヒューマニズムに反する言葉は人道主義に反する封建主義、民族差別、家父長制、物質優先主義、金銭崇拝主義、エゴイズム、業績優先、建前優先、世間体優先等々となる。一語でヒューマニズムに対する概念を表わす言葉はない。「人道主義に反する」という形容句を必要とする。トートロジー(同義反復)である。
しかし、ヒューマニズム発生の源にまで遡れば、ヒューマニズムに対する言葉は、一語、すなわち「神の支配」であった。ダメで、愚かで、欲望に支配され、非道徳で、まともに社会を構成していくことのできない人間どもは神が支配するしかない、神が直接統治するほかない、というのがヒューマニズム以前の時代のものの考え方であった。
それを覆すきっかけとなったのは西欧社会のアラビア文明との接触、エルサレム奪還のための十字軍派遣であった。そこには西欧社会が断ち切っていたギリシャ文明が連綿と生き延び、発展を示していた。ギリシャ文明に流れていた人間礼賛というものの考え方が西欧社会にルネッサンスを呼び、啓蒙思想を呼び、市民革命を経て、デモクラシイ、すなわち神の支配ではなく民衆の支配、民衆による民衆の統治という現在の社会をもたらせたのであった。この人間礼賛というものの考え方こそヒューマニズムの原点である。神に対置されるものとしての人間、その認識・評価がヒューマニズムである。
さて、問題は、人間はなぜ礼賛されるべきものなのか、というところにある。礼賛されるべき理由があって礼賛されるようになったのであり、理由もなく自然に、人間愛というようなものが存在するから礼賛しましょうというようなことになったのではない。人間礼賛の前には、人間はバカ、アホ、ドジ、マヌケの否定的存在であるがゆえの神の支配という思想が厳然と存在していたのであり、その思想によって社会が構築されていたのである。その思想、その社会との闘争なくして突如、人間礼賛の思想が一世を風靡し、社会構成の原理になるはずはない。
人間が礼賛されるべき理由は人間が理性(=rationality、reason)を有しているからである。理性によって人間は神に近づける。理性によって人間はこの世を神の国とすることができる。神の一々の指示を待つことなく、理性を働かせて判断していけばいいのだ。これが当時の人間礼賛の考え方である。そして、その理性の発現によって現実に科学は発展し、技術が進歩し、生産力が向上し、それによる新興階級の勃興があった。このような結果、人間礼賛論、すなわちヒューマニズムは思想的に勝利したのである。
めでたし、めでたしと言いたいところだが、ここに陥穽(落とし穴)がある。それは、この人間礼賛・ヒューマニズムの思想には功利主義的目的論があるということだ。
すなわち、人間は礼賛されるべきものだ、それは人間が理性を有しているからだ、理性はこの世を神の国にする力があるからだという論理には、役に立つがゆえに価値があるという考え方がある。この考え方は、役に立たないものは価値がない、理性がなければ意味はない、理性なき人間は礼賛されるべき人間でない、という考え方を呼ぶ。理性なき者、理性なき者と判断された者…その判断は往々にして恣意的になされる…それらの者に対する極端な差別につながる論理なのである。
植松聖がヒューマニズムの瘴気にやられた、というのは、植松聖がこの論理に立ってしまっていたということだ。
今日、我々はヒューマニズム発生時点のヒューマニズムとは異なるヒューマニズムの立場に立っている。理性オンリーをヒューマニズムの論拠とはしてはいない。しからば、今日のヒューマニズムは発生時点のヒューマニズムとどのようにちがう論拠に立ったヒューマニズムなのか?
「自由」「平等」「博愛」「基本的人権」ということばはヒューマニズム発生時点からあることばである。これらの対象者が理性を有する(と判断された)人間に限定されていた時代がある。これらはヒューマニズムの表現であって、論拠とすることはできない。これらのことばは今日、発生時点とは変質している。問われるべきは変質をもたらせたものは何か、ということなのである。
今日のヒューマニズムの論拠について不明確なまま、我々は我々の社会の基本原理をヒューマニズムに置いている。正面切って反対する者がいないから、何となくのみんなの合意があるから、論拠が曖昧なまま放置されている。ヒューマニズムの論拠の確認がないまま世の中が進んで行くことの危険は、単に第2、第3の植松聖を生むのみではない。理性オンリー主義を温存し、構築されるべき社会とはいかなる社会かをめぐって世界大戦の発生に至りかねない重大問題である。
人類の当面の思想的課題はここにあると言っても言い過ぎではなかろう。