2016年8月10日
宮内庁長官の職務怠慢である。
生前退位は国家百年の計、千年の計の観点から極めてリスクが大きい。
天皇の政治的中立は理念として正しいが、現実的にはその貫徹は非常に難しい。
被災地訪問はまだしも、戦没者慰霊、特に海外での戦没者慰霊には異見がある。筆者は歓迎しているが靖国神社不参拝には右方向から批判がある。スポーツ観戦でさえ、時と場合によっては政治性を帯びる。
天皇の政治的利用の誘因は常に強く存在している。
それゆえ、天皇の地位が崩御だけではなく、「意思」によって左右されるということになれば、そこに外部からの介入があることを当然に考えておかなければならない。
その外部からの介入阻止を制度的に確保することは事実上は困難である。
生前退位にはこういった事情があるにもかかわらず、「天皇陛下のお言葉」は生前退位を事実上要求するものとなっている。
天皇のお気持ちはお気持ちとして、国家百年の計、千年の計の観点から生前退位を諦めていただき、摂政をもって御負担の軽減を図るというのが宮内庁長官の務めであった。
摂政については「お言葉」の中で「天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。」と明確に否定されている。
しかし、天皇に求められる務めについて、憲法の求めるところをはるかに超えて天皇が重く考えすぎていることは……国民とすればありがたいことではあるが……明らかである。
天皇の存在の意味はあくまでも象徴であることであり、その「実働」にあるわけでは……「実働」いただけることが感謝、歓迎であることは言うまでもないが……ない。
その点についての天皇の思い込みを緩和することこそ宮内庁長官の役割であった。
「天皇のお言葉」によってストレートに生前退位に至るわけではない。マスコミ、政党、世論の動向は「天皇のお言葉」の方向にまっすぐ沿うように動いているが、識者の中にはあらためて再考すべきことを主張するものがある。
天皇に翻意を促すケースが生じる確率は小さくはない、そうあることが望ましいと筆者は考えている。
風岡宮内庁長官に再度の出番はありうる。風岡宮内庁長官のこれからの働きに期待したい。