2016年8月9日
知的障害者施設襲撃事件の犯人植松聖が衆院議長大島理森宛てに議長公邸警備の警官に手渡した文書には「フリーメイソン」ということばが2度、フリーメイソンの一派・啓明結社を意味する「イルミナティ」が「イルミナティが作られたイルミナティカード」という表現で2度登場している。「作られた」ということばは丁寧語、尊敬語としての「作られた」であり、「イルミナティ」に対する植松の気持ちが反映していると思われる。
「フリーメイソン」は欧米世界では権威ある団体だが、仲間内にだけ通じる合図とか謎めいた紋章とか秘儀めいた入会儀式とかがあって、神秘的魔術組織、陰謀をたくらむ秘密結社のようにイメージされている傾向がなくもない。
犯人植松がこの「フリーメイソン」について正確な知識に基づいて言及しているのか、間違ったイメージで言及しているのかはわからない。しかし、いずれにしても思想、宗教に関係する特殊な団体に言及している以上、事件を起こした動機、背景、思想を探るうえで「フリーメイソン」が第一級の重要情報であることは間違いないと言わざるを得ない。
しかしながら、この件に関しては、この種のネタが好きな週刊誌を含めてマスコミ全体が完全に口を閉ざしている。
「フリーメイソン」がマスコミに圧力をかけているとは思われない。そんな自ら尻尾を出してしまうような、安易で軽率なたぐいの組織ではないと思われるからだ。
「フリーメイソン」についてあいまいな情報しか持っていないマスコミが、「フリーメイソン」を知らないがゆえの恐怖心により、自己検閲的に本件に触れないのではないかと筆者は推測している。
マスコミの不思議な沈黙については、残念ながら内部情報が出てこないかぎり追及のしようがない。本稿では犯人植松の激しい差別意識による知的障害者襲撃と「フリーメイソン」とはどんな関係が有り得るかについて、筆者の仮説を披露しておきたいと思う。
まず、「フリーメイソン」とは何か、その多くを講談社現代新書「フリーメイソン〈吉村正和著〉」に負っているが、筆者のことばでその思想的性格を明らかにすることにしたい。
1 「フリーメイソン」とは18世紀に始まるキリスト教信者団体である。(それ以前にその起源となる組織が存在していた可能性が高いが、本稿での課題の対象外である。「信者団体」ということは「教会」ではないということであり、組織に聖職者はおらず俗人の組織ということである。団体としてキリスト教であることを表明していない。その寛容性を示すための選択のようだ。)
2 理性、徳性、良心といった肯定的性格を磨くことによって、人間は神に近似することができ、この世を神の国に近づけることができるという考え方を持っている。(一方で、人間はそもそもダメなものであり、神の超自然的な救済を待つしかないという考え方があるが、「フリーメイソン」の考え方はその対極にある。)
3 人間を肯定的に捉えるこの考え方は、ルネッサンス→啓蒙思想→市民革命→民主主義国家という近代社会の基礎をなす考え方と軌を一にするものである。軌を一にするというより、むしろ「フリーメイソン」の考え方が近代社会を作り上げてきたということもできる。それくらい「フリーメイソン」は近代のスタートにおいて大きな役割を果たしている。
4 人間を肯定的に捉える考え方、特に理性を重視する考え方は、近代社会を支える科学、科学技術とも整合的であり、「フリーメイソン」には科学者、技術者の参加が多い。「フリーメイソン」の「メイソン」とは当時の最先端技術を担っていた「石工」のことであり、「フリーメイソン」の象徴がコンパスと直角定規であることも理性主義、科学技術重視の反映と考えられる。
5 このような考え方の一つの帰結として、会員には女性を認めない。また、会員は事実上、貴族、上層市民、知識人、芸術家などの支配層から成っており、現代においてもそれは変わらない。
6 近代初期において発生した「魔女裁判」による大量虐殺は、反理性、魔術、神秘を認めないという「フリーメイソン」の合理主義と同じ考え方からのものと考えられる。
7 世界に6百万の会員がいるとされているが、そのうち4百万はアメリカである。歴代大統領をはじめとする支配層における会員数、独立の経緯、国璽(国家を表わす印章)等々からアメリカは「フリーメイソン」によって建てられた国、あるいは「フリーメイソン」の思想に基づいて建てられた国ということができる。
雑学的に「フリーメイソン」についての情報をあげていけばきりがない。しかし、植松聖との関係では以上にとどめておけばいいだろう。以上に上げておいたことですでに「フリーメイソン」と植松聖との関係が示唆されたと思う。
「フリーメイソン」の理性、徳性、良心、寛容の尊重という考え方が自分自身に向けられた場合、自分自身の研鑚努力を促進し、能力、精神を高めるものとして健全な、ヒューマニズムにつながっていくものとなる。しかし、その考え方が自分自身を棚上げにして、他者への要求という方向をとった場合、理性なき者、徳性なき者、良心なき者、不寛容な者に対する激しい糾弾から差別、虐殺等の人格の否認にまで至る反人道主義的様相を示すことがある。
そして、そのターゲットが偏見に基づいて特定の集団にセットされた場合、異教徒、有色人種、女性、性的マイノリティ等がその対象となり、その文脈に知的障害者が連なってくることになる。理性、徳性尊重主義は、一見極めて当然の考え方に思われるが、それを要求する方向を間違えると、それが無いと判定された者を人格として認めないという反人道主義に一挙に転換し、弱者に残虐の牙をむくのである。
犯人植松の行動を導く要素を「フリーメイソン」がたっぷりはらんでいることは明らかであろう。
植松聖が正常な判断力をどのくらい有していたのか、「フリーメイソン」との接触はいつ、どのようにあったのか、行動の動機は別にあって「フリーメイソン」の考え方は名目に使っただけなのか、それとも行動の直接動機だったのか、これらについて今後追及されなければならない。しかし、いずれにしても犯人植松と「フリーメイソン」の間に密接な関係があったことは否定しがたいと言わなければならないだろう。