2016年7月6日


 音楽、演劇、文学、スポーツなどからのメッセージについて、素直に受けとめられない違和感、不快感を感じることは誰にもあるだろう。

 違和感の理由は様々あるが、その中にこういう場合もある。

 すなわち、メッセージを一生懸命に発しているというポーズがとられながら、実は発信者が本気ではない、発信者が本当は感動していないというケースだ。

 


 発信者が本気ではなく、感動もしていないのに、なぜ一生懸命メッセージを発信しているポーズをとるのか?

 仕事だから、命令だから、自己アピールの手段として使えるから、そのメッセージの世間的評価を推定して、同じことだが消極的態度への非難をおそれて、などがその理由であろう。

 そして、その危険に最もさらされているのが主体性の発揮が大きく制限されているマスコミ従事者だ。


 開会が迫っているリオ五輪・パラリンピック、そして東京五輪・パラリンピック、今やこの2つに抵抗することは、少なくともマスコミレベルではまったく許されていない。

 「そこのけ、そこのけ、五輪が通る」「下にぃ!下にぃ!」の大名行列状態で、初代・知性なき首相の森某が君が代を歌わない選手を批判するハネ上がり現象まで発生している。

 背景には、言うまでもなく、政府与党による報道への干渉の動き、形成されてしまった(ように見える)国民世論の一致がある。


 かくして、無理やりの盛り上がり工作報道が乱発される事態になっている。なじみのないスポーツが紹介され、実績を聞いたこともない選手の名前が急に上げられ、メダルの可能性が云々される。

 投入される資金、何兆か何千億円かは、いい加減な計算の結果として知らされているのだろう。しかしそれに加えて大きな問題であるのは、どれだけの国民の目と耳と口が2つの五輪・パラリンピックに支配され、その結果、もっと見られるべきこと、聞かれるべきこと、語られるべきことがどれだけ排除されることとなるか、計り知れないということだ。国民全体の大愚民化政策が展開されているということだ。それを考えると頭が真っ白になる。


 太平洋戦争を支えた「一億火の玉」、「国民総動員」、「欲しがりません勝つまでは」があれだけ反省されているにもかかわらず、まったく同一現象としか思えない五輪・パラリンピックに対し日本国民はなぜまったく問題意識を持たないのだろうか?

 新安保法制の憲法違反にあれだけ抗議した人々は、「国家」がこれだけ露骨に登場してくる五輪・パラリンピックのムードになぜ安易にはまってしまうのであろうか?

 大勢順応、多数同調の危険になぜ日本国民は感度がかくも鈍いのであろうか?権威によって作り上げられたもの、デッチ上げられたものに対して日本国民はなぜかくも従順なのであろうか?


 宣言しておく。リオ、東京に対して、問題指摘・批判報道を除き、目と耳を完全にふさぐ。ニュースの一部として入ってきてしまう場合は、その間は直ちに消音にする。