2016年6月4日


 こういう人がいます。おそらく精神病理学上の病名もあるはずだと思われます。もともとは正義感の強い人です。

 その正義感の強い人が、世の中のあまりにも酷い悪を見てしまい、しかもそれが社会全体に蔓延していて、社会を実質的に支配しており、それまで教えられていた社会の姿とはまったく違って、悪の論理が横行しているのが社会の実態なのだと感得してしまいます。(そのように感得したがる精神的傾向の結果という理解も有り得ると思われます。)そして、本人にはそれを許しがたい気持ちがあるのですが、悪の力が巨大であって社会に根を下ろしていることを知ってしまったがゆえに(あるいはそのように見なしたくなる精神的傾向のゆえに)、それへの抵抗は到底不可能としか思えません。冷静な精神(あるいはそれを好む精神)からは自分ひとりで立ち上がる勇気は生じません。

 人間は自己矛盾に耐えられない動物なので、その人は悪に対して立ち上がれない自分を心理的に何とか合理化しなければなりません。

 まずは共に立ち上がるべき他の人々が力量不足(阿呆、馬鹿)であって、自分の知っている巨大な悪に勝つ見込みが到底持てない、と他者を蔑み、自分が立ち上がらないのを他者のせいにします。他者を知らず、他者を信頼できない、孤独な精神のなせるわざといえるでしょう。

 その孤独な精神はさらに、他者との共闘を拒否する理屈として、悪に立ち向かっていこうとする他者の善意、道徳、正義感を矮小化します。すなわち、他者の善意は自己肯定感を得るためだけのアリバイ工作的な善意にすぎない、他者の道徳は仲間内だけに通用する狭い庶民的道徳にすぎない、他者の正義感は賞味期限の短い子供じみた刹那的正義感にすぎない等々です。

 そして、悪に対する立ち上がりを決定的に回避させてくれるありがたい生活態度があることを本能的に感知し、これを採用します。それは、自分はけっして正義感などは持っていない、正義感を持つなどということは自分に内在する悪を知らない非知性的態度であるなどと自己韜晦して、自らを悪とする態度、悪を衒う態度、悪を自己演出する態度、すなわち「偽悪」です。自分が悪であれば悪と戦わねばならない立場ではありません。要するに「偽悪」は当人が潜在的にもっている正義の義務感から当人を解放させる効果を持つものなのです。「偽悪」は心の平安をもたらす最後の花園なのです。


 強い正義感、他者の蔑視、他者への不信、孤独な精神、知性志向、自己合理化、そして保身、これらが「偽悪」を呼ぶのです。

 誠に失礼ながら、ここのところ政治的スキャンダル処理などで活用されているいわゆる「ヤメ検」(すなわち検事出身の弁護士)の世界にはそんな感じの方が散見されるという印象があります。大衆から遠く離れて、離れているがゆえに支えを求められないか弱きインテリということでしょうか。彼らも犠牲者といえば犠牲者です。