2016年5月6日
自戒を込めて言うのだが、正義というものは美味しい。そのための我慢、自己抑制、自己否定がなされ、場合によっては自死にも至るものである。多大な犠牲を払ってまでその美味を追求させるものである。自己犠牲によって、美味はさらに増すと言ってもよい。
それは何ゆえに美味なのか?
正義には他者に対する優越という隠し味があるからである。
正義は、それを知らない他者を愚か者としてくれる。それに反して行動する他者をエゴイスト、不道徳者、下劣漢として非難する立場を与えてくれる。
他者との競争を煽られて生きてきた人間にとって、正義は優越感を提供してくれる最後の砦である。現代の競争過剰社会では、したがって正義飢渇症が蔓延するに至っている。
正義飢渇症が真の正義をもたらせてくれるならば、それは誠に結構なことのはずだ。しかし、残念ながらそうはならない。
美味を味わうにあたり、正義の実質的内容は関係ない。本人が強く、頑なに信じていることこそが大切である。
正当性が決して揺るがされてはならない。正義飢渇症の者にとっては、正義が自己肯定の最後の基盤となっているからだ。
このため、正義は論理を超えるものが選択される。論理という共通の土俵に乗ることは、自分の正義と他の正義をいったんは相対化し、自分の正義を対象化するからであり、得られた自己肯定が極めて大きなリスクを負うことを意味する。
論理を超えるのに都合がいいのは、権威、伝統、カッコ付きの「公」である。カッコ付きの「公」とは論理による吟味を許さない「公」という意味である。相対化を許さない「公」である。
正義は、なにがなんでも正義でなければならないのである。
正義飢渇症ゆえの正義の追求は、かくして社会から議論を消し去ろうとする傾向を呼ぶ。ゆえに正義飢渇症ゆえの正義は、正義の名に反して、社会に有害である。単なるエゴイズムに基づく「悪」である。
以上の指摘によって真の正義、多くの議論により吟味、検討される正義の追求がためらわれることを恐れるが、有害な「正義」がはびこる事態に、敢えて、あらためて自戒を込めつつ。警告を強く発しておきたい。
自分は正義飢渇症ではないか?エゴイズムによって正義を求めているのではないか?多くの議論を面倒として避ける態度をとってはいないか?