…………         2016年4月24日




 ある人たちの集団的な不運、不遇、不幸について、それはその人たちが自ら招いたもの、その人たちの選択の結果、すなわち原因はその人たち自身にあるというという考え方がしばしば表明される。

 特に、その集団的な不運、不遇、不幸を緩和するための負担を余儀なくされる場合に、負担の義務を回避するための有力な理由として、あるいは負担の義務を不快とする表明として、そのような考え方は表明される。

 不運、不遇、不幸が自業自得なのか、他者によってもたらされたものなのか、何人にも帰することができないことなのか、定見が得られていないことについての意見の相違は、不運、不遇、不幸が重大なものであればあるだけ、関係者の間で非常に強い感情的問題となる。社会の分断をもたらし、しばしば暴力事件にまで至り、少なくとも永遠に和解を不可能化することとなる。




 このような意見の対立の弊害は極めて大きく、問題があれば直ちに解決すべきであって放置されるべきではない。

 意見の対立を各人それぞれの主観にゆだねておいてはならない。

 客観的に問題を判断するためには、問題を法的思考の枠組みの中で処理することが必要である。

 法的思考の枠組みというのは裁判で決着を図れということを意味するのではないが、裁判所で事件を処理するような、裁判官が最終的に判決を書く場合のような思考方法で問題を考える必要があるということである。

 そういう思考方法をとることは、その専門職がいることに象徴されるように、そう簡単なことではない。

 しかし、その困難を引き受ける覚悟なくして主観的な意見を表明することについては、問題が重大であるだけに、人は極めて慎重でなければならないだろう。