2016年4月7日
自民党憲法改正草案前文(以下「草案前文」と略す。文末に掲げておく。)には次のような部分がある。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち……」(第1パラグラフ)、「良き伝統……を末永く子孫に継承する」(最終パラグラフ)。
誠に正しい認識であり、適切な方針がここには書かれている。このことが世界人類への貢献であることも書いてはほしいが、筆者もここに何らの異議もない。
しかし、日本の「固有の文化」「良き伝統」とはいったい何か、その内容について正しく把握しているのか、大いに疑問を感じさせられる部分が実は草案前文に同居している。そのことは看過しがたい。
それは第4パラグラフである。
「われわれは、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。」
草案前文には3つの目標が掲げられている。「世界の平和と繁栄への貢献」(第2パラグラフ)、「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合う国家の形成」(第3パラグラフ)と第4パラグラフのこれである。
経済成長が国の大目標3つのうちの1つになっているのである。
その経済成長という大目標のために「自由と規律を重んじること」「教育や科学技術を振興すること」は手段として位置づけられている。「美しい国土と自然環境を守ること」は配慮条件とされている。いずれも経済成長という大目標に対して従属する位置づけがなされているのである。
すなわち、このパラグラフが意味するところは、自由も規律も、教育や科学技術も、経済活動の活力を妨げ、経済成長という大目標に反する内容のものは許されないということである。美しい国土と自然環境を守ることも絶対条件ではなく、経済との調和を図るべきものにおとしめられているのである。
潜在成長力が低下し、かつてのような高度成長は望めない、そのような条件のもとでいかに国を運営していくかが課題となっている日本に、再び経済成長をもたらせようとするようなこのパラグラフの内容は、そもそも現状認識不十分の時代錯誤と言わなければならない。
しかし、筆者のより強く指摘したいことがもう1つある。
「国を成長させること」、すなわち「経済成長」、すなわち「物の豊かさの追求」といったことは、日本の「固有の文化」「良き伝統」という観点からどう考えられるであろうか?
もちろん、日本の「固有の文化」「良き伝統」は「物の豊かさ」を否定するものではない。しかし、日本の「固有の文化」「良き伝統」は究極の目標を「こころの平安」に置き、「経済成長」「物の豊かさの追求」がその手段であることは認めつつも、それが「こころの平安」をかえって乱すものである場合にはそれをしりぞけ、「物の豊かさ」はなくとも「こころの平安」を得るにはどうしたらいいのか、真の「こころの平安」とは何なのか、そのことの追求に腐心してきたものであったはずだ。その集積が日本の「固有の文化」「良き伝統」の根幹をなしているはずだ。
草案起草者たちはそのことにいささかの思いも及ばず、あたかも経済団体の規約のごとく、堂々と「国の成長」を優先目標に掲げている。日本の「固有の文化」「良き伝統」に言及しながらも口先だけのことにとどまり、こころからの敬意を払っているとは考えられないのである。エコノミック・アニマルむき出しの低劣な精神と断罪するほかはない。
自民党員がみんな、草案起草者たちと同じ考えとは思えないが、仮に草案どおりに憲法改正が実現したなら、日本はやはりそんな国なのかと世界から嘲笑を浴びることとなるであろう。
憲法がかえって日本の恥となるという由々しき事態である。
安倍首相は自民党が憲法改正草案をすでに有していることを誇らしく語っていて、内容にはいささかの異議も唱えていない。党内政治の上でそのような立場をとるのもやむを得ないということもあろうかとは思うが、いつまでもその立場から脱却できないとすれば、草案起草者たちと同類の低劣な精神と断じざるを得ない局面が出てこないともかぎらないであろう。
(参考:自民党憲法改正草案前文)
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。